2021年05月15日

007 大国主命の正体を百嶋神代系譜から探る “その前に四面宮との関係を考える”

007 大国主命の正体を百嶋神代系譜から探る “その前に四面宮との関係を考える”

20210320

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


長崎県に大国主命を祀る神社が異常に多いとの事実を今頃把握しその位置付けに苦労しています。

ただ、その緊急現地調査によって高木大神と大国主命祭祀との関係が多少は見えてきました。

長崎県の南北高来郡(諫早地峡から島原半島一帯)には、多くの四面神社(25社以上)が存在し実質的にはタカミムスビ=高木大神を主神として祀る神社であると一応は承知していました。

今般、その実体に直面し興味深く見ているところですが、同地の神社群は連合体を形成しており現在も教線を拡げようとされているようです。

このため本来は百嶋神代系譜と大国主命祭祀の話をするつもりでしたが、一旦、四面神社と関連付けて考えたいと思うものです。

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ご覧の通り南北高来郡の重要な神社がかなり含まれており、中でも興味深いのは、故)百嶋由一郎が本来大国主命を祀る神社であると生前に強調されていた福岡県宗像市の宗像大社と同名の神社が諫早市の中心部に宗方神社としてありその祭神が大国主命だった事でした。

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宗方神社 祭神  天之御中主命、大巳貴命、少彦名命(長崎県諫早市宗方町 368番地)


この四面神社という高木大神直系の神社群は等しく大国主命を軸とする祭祀を持っており、長崎県下の

大国主命祭祀の中心を形成していると言う印象を持っています。

実は、この四面神社は南北高来郡だけにあるのかと思っていたら実際には他地域にも展開していたのです。

佐賀県の佐賀市、神埼市、熊本県では山鹿市、菊池市、愕くことに鹿児島県の島嶼部などにも広がりを見せているのです。そこでここでは場所が分かり易い山鹿市の四面神社を見たいと思います。

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無題.png以下、山鹿温泉の守り神 ” 四面神社 ” [ 山鹿市 ]から

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山鹿の豊前街道を菊池川のほとりまで下ります。そこから国道3号線の方へ進むと、国道の下をくぐる小さなトンネルがあります。

◎祭神 – 大己貴命 ◎祭日 – 9月9日

※ 山鹿市宗方にある、宗方八幡宮の飛地境内神社となっています。

◎四面宮に伝わる伝承

四面宮とは、珍しい名前ですが、九州には数カ所あります。古事記には、「九州は身一つにして面四つありとあるそうです。その四つの面に関係があるような名前ですね。

 長崎の諫早市にも四面宮があるそうで、そちらには随分と大きな而も由緒ある神社です。

そちらの四面宮にも「大己貴命」が祀られています。

 山鹿市の四面宮は、非常に古い神社(平安時代創立)であるといわれています。

雲仙岳の温泉神社から勧請してきたものと言い伝えられています。

山鹿は、古代(奈良時代以前)から温泉が湧いていました。

 最初に湧いていたのは、この近くの下町の天神様あたりだろう話があります。

その温泉の守り神として祀られたのがこの四面宮だったのです。

 温の端のお薬師さんより早く祀られた温泉の神様でした。

その証拠には、大正時代までは温泉祭の時には必ずお薬師さんの神輿は四面宮まで担いできて、ここで

中休みされていたとのことでした。現在、四面神社は、宗方八幡宮の飛地境内神社になっています。

宗方八幡宮は、筑前国宗像郡から移住した「宗像某」と云う人が勧請したと云われています。

この神社が浮島と称して、如何なる菊池川洪水の時も浸水したことがない聖地と云われているそうです。

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 以上、この様に3pにわたり  87社が掲載されているのです。後はご自分で検索をお願いします。


これで、付近に在る(山鹿市志々岐)志々岐阿蘇神社、祇園神社、諏訪神社の背後に何故か大きな大国主命を祀る石塔があり、かつては旧志々岐村の一ノ宮が大国主命だったと分かる痕跡が現在も保存されている理由の一端が見えてきました。

菊池川沿いの四面神社が雲仙温泉神社の関係で持ち込まれたかは不明ですが、山鹿市の中心部にも宗方という通りがあり“宗像大社の本当の祭神は大国主命である“を裏付ける様な一社にはなるでしょう。

何故ならば社名が宗像神社で祭神を大国主命としているのですから。

尚、お隣の菊池市七城町にも同様の神社があります。

内島四面神社(熊本県菊池市七城町蘇崎194番地)


  今回の話は多少枝葉の話であって、本質は九州島の長崎県以外では10社程度しか発見できない大国主命祭祀が長崎県では90社近く存在する事です。この問題は未だ解決を見ませんが、現在4回に分けて踏査に入っているところです。

  もしかしたら、九州に於いては長崎県の方の祭祀が正しく、他県が異常なのかも知れません。大国主命は九州で活動していた人物であり、その普通の表現が長崎県の例であり、それ以外は消されているのかも知れません。

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2021年05月07日

006 若き大国主命と少彦名命の素性を探る “福岡県春日市の大巳彦(オオナビコ)を祀る伯玄社”

006 若き大国主命と少彦名命の素性を探る “福岡県春日市の大巳彦(オオナビコ)を祀る伯玄社”

20210304

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


今回ご紹介するのは全国の方がほとんどご存じない若き大国主命を祀る神社についての話です。

これも百嶋先生からご紹介を受け、これまで現地を確認するトレッキングを繰り返してきた神社です。

巷では大和朝廷に先行する「古代出雲王国」とか“九州王朝に先行する古代出雲王権”といった大げさな話が横行しているようですが、所詮これは近畿大和政権による偽装ではないかと考えています。

@  “大国主を出雲の国の人だと思っておられる方がおられますが全くの誤りです。”と言われたのは故)百嶋由一郎氏でした。

A  “古代出雲はいたるところにあったのです。”という奇妙な話をされていてこれまで意味が分からなかったのですが、最近になってようやく意味するところが分かるようになってきました。

恐らく先生が言いたかったのは、列島の開拓段階での事であり、全体としての大幡主系と言うか、白族(大幡主)、越智族(大山祗)、瀛氏(金山彦)の連合体とも言うべき忌部、卜部…が展開した入植地こそが出雲だった、現出雲はその多くの出雲の一つだったという意味だったようなのです。

幾つかの「出雲」地名をお知らせします。

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B従って、出雲を「イズモ」と読み呼ぶのは、本来、誤りで、出雲は「イン」と呼ぶべきなのです。

C  つまり、忌部(豊玉彦)の展開した讃岐、阿波、紀国、忌部の一員であった大国主が後から展開した現出雲もそうであり、九州島内にも出雲地名(福岡県飯塚市桂川)、長崎市出雲(グラバー邸の南東)があるように、この旧忌部が展開していた地域が、今もモザイク的、斑状に存在しているのです。

D  出雲は「出」をイヅ(ズ)ルの「イ」、「雲」をウンと読めば、「イ+ウン」で忌部の「イ(ム)ン」と一応は読めるのです。

E  では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについては、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)氏が 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いておられますのでお読み頂きたいと思います。

F  これを読まれれば、少彦名命が春日市の須久岡本遺跡のある須久に住んでいた須久の彦だったことがお分かり頂けるのではないでしょうか?「スクナ」は「スクノ」の古形であり、今でも「そこな御人」「そこな女子」といった言葉が落語などに留められている事が思い浮かばれます。所有の格助詞の「な」がスクナヒコナ命の意味つまり、スクの彦の命がその意味だったのです。すると、春日市商工会議所敷地内に残された伯玄社にある「オオナビコ」と「スクナヒコナノミコト」とは幼馴染であった事までが見えてくるのであり、神話の世界が現実の歴史の世界に引き下ろされて来るのです。

G  最後に、大国主の国譲りの結果、最終的に大国主もしくは、その配下の大国主の一党が移動していった旧出雲の一つが現出雲であり、移動先(移転先)こそが現出雲だったことが見えてくるのです。

H  従って、現出雲とは近畿大和朝廷が創ったものであり、因幡の白兎神話の舞台とか大国主が大怪我をしてウムギヒメ、キサガイヒメが介護に送り込まれた現場といいテーマ・パークでしかないのです。

I  このことは、九州の大国主祭祀圏の再検討再調査が極めて重要であることを示しているのです。

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宗像の神と言えば、宗像三女神と誰もが考えておられるでしょうが、百嶋神社考古学では、祭神を「大国主命」とします(ウムギヒメ、キサガイヒメは宗像三女神のうちのお二人なのです)。

出雲神話の神様の「大国主命」が祀られているなどとんでもない話だ!と言われるかもしれませんが、それなりの根拠は存在しているのです。

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大己彦命


落ち着いて考える必要があるのですが、神社のフィールド・ワークを行っておられる方には分かることと思うのです。まず、出雲系と言われる神社が多いのは圧倒的に九州なのです。

これは、計量的に調査を行うことが難しいのですが、熊野神社、諏訪神社、祇園社、須佐神社というものがあまりにも目立ちすぎるのです。

しかも、唐津市湊の沖には、神集(カシワ)島と呼ばれる島まで鎮座しているのです。

古代この地で神無月に神集まりが行われていたのではないかと考えています。

勿論、宗像大社が誰を祀ろうが、それはその神社の自由であり、その時々の判断でどのようにされるともとやかく申し上げる立場にはありません。

ただ、私達が知りたいのは古代の真実であり、正しい神代史、古代史の姿だけなのです。

詳しくは、前掲のブログを読んでもらうとして、今回は、神仏混淆化された参拝殿(お堂)の裏に石造りの神殿の神額を見て頂きたいのです。

実は、前回訪問した時は、文字が書かれているとは考えていなかったのですが、今回、訪問すると、ちゃんと書かれている事に気付いたため、改めてお知らせする事にしたものです。

通常は、ボロタオルを用意して水に濡らして表面を拭けばだいたい文字が浮かび上がるのでどなたも試してみて頂きたいと思います。

デジタル・カメラで撮影した画像を、コントラスト、明るさをパソコンで調整しても文字が浮かび上がる事があるのですが、まずは、このような簡単な方法でもなんとかなるものなのです。

やはり、多くの人間の目で何度も訪問すれば、その都度、新たなものが発見できるものです。

これが大国主命(オオナムチ)の幼名(オオヤビコ)であり、大国主命が現出雲の国の人など言う近畿大和朝廷が捏造した「古事記」などを真に受けない様にお願いしたいものです。

穴掘考古学に明るい方には常識でしょうが、多くの甕棺墓が発掘された著名な須久岡本遺跡はこの伯玄社からそう遠くない所にあります。

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「大巳彦神」と彫り込まれていることはお分かりになるでしょう


大国主命が国土開発に考えあぐねているところに協力者が現れます。  

少彦名命です。つまりこの二人は幼馴染だったのです。

そろそろ「出雲神話」の呪縛から解き放たれて藤原の造ったテーマ・パークから解放されたらいかがでしょう。007からは百嶋先生が残された神代系譜から新たな大国主命像を探ろうと思います。

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2021年05月05日

005 九州島にも大国主命を祀る神社がかなり存在する A “やはり大国主命は消された”

005 九州島にも大国主命を祀る神社がかなり存在する A “やはり大国主命は消された”

20210304

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


 無題.png前ブログでご紹介した長崎県に於ける大国主命祭祀の事ですが、九州島にも大国主命を祀る神社がかなり存在する “長崎県は大国主を祀る神社が異常に多い”で確認した87社を下記の長崎県神社庁のHPで確認していくと、半数近くが無格社に落されている事が見えてきました。

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と、言った具合で、スサノウ系、金山彦系と併せて無格社が半数近くに登っているのです。


 近代社格制度 無格社無格社は、法的に認められた神社の中で村社に至らない神社であり、正式な社格ではなく、社格を有する神社と区別するための呼称だったが、社格の一種ともされるようになった。無格社の神社であってもほとんどは氏子を有し、村社以上の神社とは、神饌幣帛料供進がなかった点や境内地が地租もしくは地方税免除の対象とされなかった点などが異なる以外に、目立った相違はない。

規模の小さな無格社の多くは、明治末期の神社合祀で廃社とされた。

全国約11万社のうち、無格社は1938年(昭和13年)の調査では60,496社あり、当時の神社数の半数であった。最終的には59,997社が存在したとされる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210304 09:10


日本は維新以来の明治初年から国家の宗祀として官費で官社の経費を支給していたのですが、明治20年辺り国庫から保存金が支給され、後に供進金制度となっているのです。これの対象外となったものが無格社であり、簡単に言えば地域の負担だけで維持されてきたものが存続しているのです。


勿論、無格社といってもここで取り扱うそれは明治以降の話でしかなく、それが古代の大国主命の九州島からの追放を表していると申し上げるつもりではありません。

しかし、明治期の政治的な大転換によって無格社とされた神社とは、やはりその地域でも敗残した側の集落の神社ではなかったのか?との思いへ馳らせるのです。

ともあれ、長崎県の大国主命祭祀はこれから確認しなければならない事であり、これまで九州島外への調査に全精力を傾注していただけに、落とし穴に嵌った思いがしています。

これからしばらくの間、最低でも510回程度は遠征し、全体像を把握したいと考えています。

ここで、話は全く変わりますが、案内していない熊本県に於ける大国主命祭祀を人吉市と水俣市の例から2例ほどご紹介しようと思います。

当会のメンバーであり、球磨川流域から人吉盆地に掛けて活動されている「ひろっぷ」女史からは毎回驚くべき成果が報告されています。


人吉盆地を征圧する北嶽神社


少し大げさなタイトルにしましたが、実感としてはその通りです。

人吉盆地の北部、相良村の奥に北嶽神社があります。

北嶽神社について17世紀末に纏められた「麻郡神社私考」によれば 御祭神 近江国滋賀郡日吉神社 同體 大己貴神(大国主神) 大山咋神 とあるも「熊本県神社誌」(S56年刊)は大国主命を消し大山咋としているのです。


「麻郡神社私考」は相良家第22代当主相良頼喬の命により、球磨郡の宗社であった青井阿蘇神社の大宮司青井采女佐大神惟董が調査研究して元禄十二年(1699年)十二月に完成し献上されたものです。“

と書かれています。


これでも分かるように、前ブログで取り上げた“肥後では大国主祭祀が消された”という現象が裏付けられたと考えます。

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北嶽日吉神社 カーナビ検索 熊本県球磨郡相良村四浦


確かに北嶽日吉神社は江戸期までは大国主命祭祀が残っていたと考えられます。

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この日吉神社=日枝山王神社というものは徳川期に隆盛したもので、山王一実神道として全国に広がったと言われています。

その背後には徳川幕府のブレーンで比叡山延暦寺の高僧でもあった天海僧正の存在があったはずで、日枝と比叡が通底している事でもお分かり頂けると思います。

 このため、北嶽神社はいつしか本来の修験の性格を薄め、徳川家に帰順する日吉神社としての性格が強まり、強面の大国主命を背後に移し通りの良い大山咋神へと祭神の切り替えが行われたものと考えられるのです。

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恐らく、「熊本県神社誌」が編纂されたS54年当時の上米良純臣氏(青井阿蘇神社宮司)も「麻郡神社私考」の記述は十分にご存じだったはずですが、既に明治以来の修験道が禁止され祭神の切替が明らかになっていた以上、当時の現状を追認せざるを得なかったのではないかと考えるのです。

 ただ、ここでお考えください。百嶋神社考古学では、大山祗と博多の櫛田神社の大幡主の妹埴安姫との間に生まれたのが大国主命とします。

ところが、この大山祗の長女神大市姫の娘辛国息長大姫大目命=アメノウヅメとニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦の流れから最強硬派の物部氏が生じている事から、結果的に大山祗系の大国主命まで排斥し大山咋へと転換が図られたとも考えるのです。


古代日向から越境し肥後を睨む湯ノ鶴神社


故)百嶋由一郎氏は邪馬台国の南に展開していたとされる狗奴国こそ大山祗の一族であり、それが融合し展開した一国が現出雲であると言われていました。最後に水俣市湯ノ鶴温泉の湯出神社をご紹介します。


無題.png 地理院地図には登載されており間違いなく神社は存在するのですが、神社誌でもグーグル・マップでも全く拾えないのです。

もしも何故肥後の熊本に大国主命が祀られているかを説明できる方がおられたらご教授願いたいと考えるものです。

 故)百嶋由一郎氏はトルコ系匈奴である大山祗が、白族である大幡主の妹埴安姫との間にもうけたのが大国主命であると言われていました。

 恐らく、この事が、肥後で大国主命祭祀が敬遠された事と関係があると考えています。つまり熊襲の排撃です。

 つまり、物部最強硬派の山幸彦=ニギハヤヒ系と大国主系との齟齬が関係しているはずなのです。

百嶋先生は、大山祗の一族=越智族をトルコ系匈奴の一派(王昭君の一族)と考えておられたようですが、狗奴国の勝利的北上の結果、埴安姫の兄に当たる博多の櫛田神社の大幡主系の一展開地であった現出雲は、この大国主系の国譲りの結果生じた移動地の一つであり、それをテーマ・パーク化したのが「古事記」だったとお考えだったようです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


つまり、大国主命の本願地は熊本以南の鹿児島、宮崎、熊本南半部…であったとも考えておられたのです。

 こう考えないと、何故、日向の一の宮である宮崎県の都濃神社が大国主命を主神としているのか?

 西都原古墳群で有名な宮崎県西都市に、何故、大山祗命の墓と言われる古墳が存在するのか?

 鹿児島県の阿多半島の吹上浜に何故、大汝牟遅神社(大汝牟遅神社)があるのかが分からないのです。


次回のブログ006では、若き大国主命の素性と併せ少彦名命の命のそれも探ります。

posted by 奈東南雄 at 00:00| Comment(0) | 日記