2021年06月10日

010 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “福岡県朝倉市の田神社”

010 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “福岡県朝倉市の田神社”

20210515

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


長崎県に大国主命を主神として祀る神社が異常に多い(90社)との事実を今頃把握しその位置付けに苦労しています。

516日辺りに北松浦郡つまり長崎県松浦市周辺を数名で探ろうとしていましたが天候が思わしくなく、結局、6月に延期しブログを書くことにしました。いよいよテーマは核心部に近づいてきました。

既にひぼろぎ逍遥氏こと古川氏が多くを書いておられますが、整理する上で百嶋神社考古学の立場から再構成したいと考えています。

まず、百嶋先生は“皆さん大国主命を出雲の方だと勘違いされています”“スクナヒヒコナノミコトは妙な名の神様と思われるでしょうが、スクノヒコノミコトと考えて下さい”“朝倉郡で最も分かり易い田神社は朝倉市甘木公園にある田神社です”…などと言っておられました。

これらの事から、今考えれば古川氏などが提案されている内容は百嶋先生のお考えに沿った形で調査が進んでいると考えて良いのだろうと思います。


田神社の不思議


重要なのは次の二点です。一つは旧朝倉郡に大量に分布している60社の田神社(埴安彦=大幡主=カミムスビ、埴安彦+埴安姫…)が1社を除き全て無格社扱いとなっている事で、これは筑後川北岸の大幡主系の沃土が恐らく高木大神=タカミムスビ系に奪われた事を意味するのではないかと気付いたのでした。

この辺りまでは百嶋先生は匂わせておられたのでした。

二つ目は、実のところ百嶋先生からも聴いていなかった話なのですが、事務局の中島氏が発見し、その記録として残されていた「日隅宮」が郡境の旧夜須郡にも田神社があり、「古事記」の出雲神話に登場する国譲りの代償とされた大国主命の代替の宮が50年前実在していた可能性が一気に浮上したのでした(夜須郡は現在の朝倉郡筑前町夜須地区と三輪地区)。今回はこの辺りから話を進めたいと思います。

詳しくは宮原誠一氏、古川清久氏などのブログを読まれるとして、一般の方へ分かり易く伝えることが本ブログの目的ですので、極力余計な部分を捨象し単純化したモデルでお伝えしたいと思っています。

まず、全部はお見せできませんが、「福岡県神社誌」下巻399p辺りから…

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ご覧の通り、朝倉市の北隣になる飯塚市にも田神社があるように、北九州市の一部も含め朝倉郡以外にも分布しているのです。これらは恐らく組織的な移住者によって齎されたものなのでしょう。

飯塚の例では倉稲魂神となっていますが、大半は大幡主の別名である埴安彦と思って間違いありません。

実際には、現在の朝倉市全域に亘る、旧甘木市、朝倉町、杷木町に60社近い田神社が一社を除き無格社とされているのです。

一般には他の神社の境内摂社になっているところもありますが、堂々と田神社として普通の鎮守様の様相で残っているところもかなりあるのです。

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朝倉市の中心部甘木の本町地区に鎮座する田神社


50年前まで大人も泳げるほどの豊かな湧水池があり(今は涸れています)その横に立派な田神社が鎮座しています。

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旧朝倉郡内で一社だけ村社となっている馬田村草水の田神社 これは恐らくお目付け役ですね


無題.png60社の田神社が一社を除き無格社扱いとなっている事は、元々この旧朝倉郡一帯は、埴安彦、埴安命、地禄神、大幡主…の名で呼ばれるカミムスビ神を奉斎する大幡主系(白族)の支配領域であった事を今に伝えており、何らかの政治的な変化によって、この現象が生じている様に見えるのです。

この変化が何によって生じているのかが問題であり、それが「古事記」に言うところの出雲の国譲りだったのではないかと考えているのです。

つまり、出雲の国譲りの現場とは旧朝倉郡一帯だったのではないかという仮説です。画像は 無題.png何と「ウヅ柱」と呼ばれているのです。重要ですので是非記憶しておいてください。この話をすると決まって持ち出されるのが例の出雲大社の三本の束となった大柱の痕跡の発掘と保存の事実です。

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ただ、注意しなければならないのは、この木材の炭素14による理化学的年代測定からは、1200年代という鎌倉初頭期のものであり、大騒ぎした古代出雲王国とか近畿大和朝廷に先行する古代国家の証拠といったものでは全くないのです。

その観点からは、むしろ、多くの銅鐸、銅剣がまとまって出土した荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の方が余程その時代に近接する物とは言えるのです。これらによって出雲の方が近畿大和さえも凌駕する実態を見せつけたのでした。その点、この調査報告には非常に有難く思っております。

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日本の考古学会は理化学年代ですら誤りであるかのように開き直り無視しているのです。

それは、既に確立している(彼らが決めただけの事ですが)土器編年の見直しを強いられ、師の説にそのまま準え、若手の疑問を封じ込んできた強要があからさまになるからなのです。

仮にやったとしても、「日本書紀」などの文献に依拠し、年代を逆に組み込む傾向のある考古学界の実状からは極めて清涼な印象をさえ受けたのでした。

むしろ議論するならば、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の方が遥かに重要に思うのです。

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「島根県大社町出雲大社境内遺跡の発掘調査の成果」についてはネット上から拾いPDFながら十分に読むことができますのでご検証願いたいと思うものです。

さて話を朝倉市の田神社に戻しますが、朝倉郡でも最も象徴的な朝倉市役所裏に在る甘木公園に鎮座する金毘羅神社の田神社をご覧頂きましょう。

朝倉市甘木公園の金毘羅神社も元は田神社であり、本来国譲りを強要された大国主命の領地だった…と主張するのはいささか強烈過ぎるかも知れませんが、今の段階での理解はそうとしか思えないのです。

 まず、旧朝倉郡(甘木、朝倉、把木)一帯に田神社なる神社が大量に存在している事を知る人は神社ウォッチャーの中でも極めて少ないと思います。

 驚くべきことに旧朝倉郡だけでも60社ほどの田神社があるものの旧馬田村の一社を除き全てが無格社(「福岡県神社誌」下巻無格社一覧参照)に格下げとなり、その辺りが知られない理由かも知れません。


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現在、田神社は金毘羅神社の参道直下の門番のような神社にされていますが、金毘羅神社の祭神=一般には大国主命(百嶋説によれば大山咋)からすれば遥かに格上の大幡主(博多の櫛田神社の主神)=カミムスビ神なのですから、決して山上の金毘羅神の裾に置かれる様な神ではないのです。

既に何度も書いてきた事ではあるのですが、この田神社は平野部に60社は分布し、ある時期には支配的な神であった事が分かります。

 一方、朝倉郡の北の背後の山地には多くの山神社、大山祗神社が分布している事に気付きます。

 百嶋翁の説によれば、この山神+田神こそが鹿児島のタノカンサー擬神体でありこの両輪で鹿児島の開

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拓が行われたのであり、その起源はこの地にあったと言う意味だったようです。

 それが分かってきたのは、何故、格上の田神社が門番のような役割を担わされているのかと言う疑問がようやく融けて来たからでした。

これまで不鮮明だった田神社降下の時期は、江戸時代の金毘羅宮隆盛の時期か、出雲の国譲りの現場がこの地であり、その激変に伴う変化が反映しているのではないかという思いがあります。まだ分かりません。

この田神社の多くが無格社に貶められた時期に山上の田神社が引き下ろされたと考えるのは全くの仮説でしかありませんが、この間、朝倉市の西の筑前町(旧三輪町+旧夜須町)に日隅宮が存在した(今も存在している)事を発見し、大国主命の義理の父神である大幡主(=田神社の祭神)がほぼ全て無格社に落されている事から考えると、何らかの政治的な力が働き現在の状態が成立して入る様に見えるのです。

もう一つの可能性は江戸期に流行した金毘羅宮信仰は元々徳川家の参謀だった天海僧正の山王一実神道の影響があっての事で、その際に祭神が入れ替わったのではないかとも思うのです。

そのいずれであるとしても、本来、山上の金毘羅宮は後から持ち込まれたものであろうと思うのです。

何度も訪れた金毘羅宮(甘木の)でしたが、改めて神殿背後に回ると大国主命などを祀る祠があります。

金毘羅宮の神殿背後に尚も大国主命祭祀が残っている事は元々の祭祀であったように思えるのです。大国主命祭祀は筑豊でも消されるも散見されるもので、信仰の情念とはかくも強固なのです。

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この大国主命祭祀はこの辺りの事情を知る人々がおられたか、何らかの伝承が残されそれを守ろうとする情念の現れがあってこそ成立しているはずなのです。

 始めは重視していなかったのですが、筑前町の大巳貴オオナムチ神社に近接する弥永の田神社(天神社)に移設された日隈宮を発見してこの方向で考えて来たのですが、田神社=カミムスビ=櫛田神社の大幡主をシンボルにする大国主支配領域を譲渡させられた「出雲の国譲り」の現場がこの朝倉郡であり、その痕跡が60社もの無格社に落された田神社であり、代わりに持ち込まれたのが金毘羅宮だったのでしょう。

現在もその背後に残るのが大国主命祭祀であり、大黒様の面であり、エベスさんの面と考える価値はあるのです。そして、実はこのエベスさんも甘木の中心部に残されているのです。

 一般的に神社の祭神配置というものは、背後に坐する神ほど格上であり、偉い神様ほど後ろに控えているのです。

してみると、金毘羅宮の祭神が大国主命とされる(四国はそうですね)ものの、金毘羅宮が大山咋=日吉、山王、松尾、日枝…であるものが混在している意味も解析が可能になりますし、もしかしたら、金毘羅神が山上に鎮座する前の本来の祭神の痕跡ではないかとまで考えるのです。

 この大国主命祭祀の起源がどこまで遡るかの解析ができない中での話ですので説得力はないのでしょうが、こういった作業の連続が定説の存在しない神社研究であり、思考の冒険程度の事として留めておくことにしたいと思います。

 もしも、筑前町の田神社境内地に移された日隅宮が出雲の国譲りの起源とすれば、甘木の中心部に鎮座する西の宮の恵比須神社も本物である可能性が浮かび上がってくるのです。

毎年歳男選びのラリーを続ける兵庫県西の宮のエベス神社もこちらから移動したはずなのです。

当然にも真面目に考えるべきなのです。何故ならば、等しく西の宮と呼ばれているからです。

 そして、最近になって、筑前町(新町)にも西の宮エビスが存在している事も分かってきました。

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2021年05月27日

009 大国主命はどこで産まれたのか “大国主命の母神は博多の人”

009 大国主命はどこで産まれたのか “大国主命の母神は博多の人”

20210329

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄


 あくまでも百嶋由一郎氏の神代系譜に依ればという仮説ですが、大山祗命が日向の人であることはある程度推定が可能な上に木花咲弥比売(コノハナノサクヤ)がニニギの求婚に際して父神大山祗命の許可を得る必要があるとした故事からも推定が可能になります。

 一方、母神の埴安姫は博多の櫛田神社の大幡主(実はカミムスビ)の妹にあたります。

 また前にお話しした通り、大国主命は、天御中主命の後裔氏族(白族)である大幡主の一族への入婿と申し上げました。

 何故そんなことが言えるのかというと、まず、白族の重要人物一般に言える事なのでしょうが、「主」という尊称を使っている事です。

 天御中主、大幡主、布津主(山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦)、事代主、神主玉、大物主、丹波道主…と。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


一方、埴安姫は大山祗のお妃となる前に、金山彦のお妃となられており、神代史を飾る絶世の美女の一人とされる櫛稲田姫を産んでおられるのです。

その後、ナガスネヒコの乱の影響によるものか、大山祗命のお妃となられ、神大市姫、大国主、木花咲弥姫を産んでおられるのです。

もう一人の絶世の美女とされる木花咲弥姫も産んでおられるのですからさぞかし母神の埴安姫も美しかったのだと想像してしまいますが、これは以前にもお話させて頂きました。

さて、現在の列島の風土から演繹できるかは不確かですが、出産となるとどうしても母方の実家で出産する方が安全で余計な神経を使わずに安心して出産できる事は現代でもある程度推定できそうです。

このように母方の実家となると博多になってしまい、大国主命もこの辺りで産まれたのではないかと思うのです。

その様に考えると、外洋に面し直ぐに攻略される博多よりも筑紫野市、太宰府市、春日市辺りの内陸部に幼少期を過ごした可能性は高く、少彦名命(春日市 須久 岡本辺りにいた)と遊び仲間だった事は良く分かるのです。

コノハナノサクヤは早々とニニギと別れ、どうも暫く鹿児島空港がある鹿児島県の旧溝辺町辺りに居た様で(前玉神社)、これについては「ひぼろぎ逍遥」を書いておられる古川氏が書いておられるのです。

では、コノハナノサクヤヒメはどうでしょうか?実ははニニギと別れた後に前玉姫(サキタマヒメ)と名を変え、ヤタガラス(豊玉彦)と一緒に鹿児島県溝部町の前玉神社に移動し、後には富士浅間神社、埼玉県行田市の埼玉古墳群正面の前玉神社に祀られておられます。そして埼玉県の県名の元ともなってもいるのです。これらについて詳しくは以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)023 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 23本。

では姉の神大市姫はどうなのでしょうか、これも古川氏は ひぼろぎ逍遥(跡宮)522 鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見 で、ミズハノメこそが大山祗系を継承しているのではないかと考えておられる様です。

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神社自体は至って古風で、それだけでも心が惹かれますが、境内には寺師氏の出身地との石標が建てられていました。この寺師の一族は琵琶湖の北に展開しており、大山祗系の重要氏族だったと考えておられる様です。

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御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)


なんと御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)の一神でした。単独での祭祀は初見です。

以下は前玉神社。


前玉神社 サキタマジンジャ 祭神 福玉大明神 サチタマダイミョウジン

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百嶋由一郎「桜子」神代系譜


有力者であった豊玉彦=ヤタガラスは多くの氏族(民族)から姻戚関係を求められています。

 その事を端的に表したのが「桜子」神代系譜なのです。

 話は突如飛びますが、私が日向に対して持つイメージは腰の強いうどん店が多い事で、この粉食を好む傾向が埼玉と通底しているという印象を強くしています。言うまでもなく、諏訪のオヤキ、山梨のホウトウ、埼玉のフライ、ひるがえって、愛媛から香川の腰の強いうどん麺は北部九州からすると異色であり、コノハナノサクヤの父神を祀る大三島の大山祗神社を思わせます。この話はいずれまた詳しく。


百嶋由一郎氏の神代系譜、講演録音声CD、手書きメモスキャニングDVDを必要な方は直接古川氏に連絡してください。09062983254
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2021年05月19日

008 大国主命の正体を百嶋神代系譜から探る “大国主命は大山祗の息子だった”

008 大国主命の正体を百嶋神代系譜から探る “大国主命は大山祗の息子だった”

20210323

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


それでは大国主命の素性を一緒に探りながら、百嶋神社考古学の立場から考える事にしましょう。

百嶋由一郎氏が人生の最終末期に全精力を打ち込んで書かれたのが最終神代系譜です。

この系譜の中心には白川伯王(天御中主の弟)−大幡主(カミムスビ)−豊玉彦(ヤタガラス)という白族の縦の流れが描かれそれを軸に多くの氏族、異なる民族とが姻戚関係を結んでいる事が判るのです。

この白族は中国の雲南省昆明の滇池や雲南省麗江の大理の周辺に居た人々です。

その後裔が京都の上下鴨大社、博多の櫛田神社に象徴されていると考えられて結構です。

この民族(後の橘一族ともなり)は大山祗(熊襲の主力トルコ系匈奴)や高木大神(タカミムスビ=イスラエル系)や金山彦(カグツチ=イスラエル系)…姻戚関係を結び呉太伯の一族を天皇とし担ぎ、我が国(倭国から自ら倭国ではない別の国日本と名乗った倭国を裏切った一部による後裔国家)を支えていたと考えられるのです。

系譜を見る事無く説明するのは非常に理解し難いので、「百嶋神社考古学研究」を開き同名のタイとトルのブログから神代系譜を見ながら検討して下さい。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


故)百嶋由一郎は「古事記」の神代編にほんの僅かだけ登場するウマシアシカビヒコヂは東西分裂したトルコ系匈奴の東匈奴が、再度、南北分裂し半島に南下した南匈奴(王昭君の後裔)が金武官伽耶に入り金海金武氏となった。その一族の長であるがウマシアシカビヒコヂが白族の天御中主命と夫婦となり産まれたのが大山祗でありその子に上から神大市姫、大国主命、木花咲弥姫の兄弟が産まれている。

まず、超古代国家出雲王朝などと言ったイメージに振り回され、炭素14同位体による理化学年代測定に依れば高々鎌倉期程度のものでしかない芯柱発掘に踊らされ奇妙なイメージだけを膨らませた古代史ファンを尻目に、百嶋由一郎氏の最終神代系譜には大国主命の血筋が淡々と記されているのです。

まず、姉の磐長姫を突きかえしてまで木花咲弥比売のみを妃としたという妙な話しか頭に残っていない人が多い中、大山祗の娘であるコノハナノサクヤと磐長姫が姉妹ではない事、出雲の人として信じ込まされている大国主命がコノハナノサクヤの兄だったなど、古代史ファンの脳味噌を破壊するような系譜となっているのです。

ここで市杵島姫は海幸彦=草部吉見=ヒコヤイミミの、豊玉姫も山幸彦=彦火々出見命のお妃になっている事が不思議に思われるかも知れません。

しかし、古代の有力な民族、氏族は自らの一族を守るために情勢の変化に合わせ政略結婚の見直しをするからなのです。

ではどちらと先に婚姻関係を結んだのかを考える時、絶対とまでは申せませんが一応の指標となるのは子供の生年です。

市杵島姫も始めは海幸彦のお妃となるも後に大国主命のお妃となっている事が確認できそうです。

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大国主を主神とする 日向一ノ宮 都農神社(左) 木花咲弥比売を主神とする 日向二ノ宮 都萬神社(右)


大国主命が日向を起源とする民族であると言う話は中々受け入れられないと思いますが、大国主命はやはり熊襲と考えるべきなのです。

ここで思考を中断させますが、大国主命は大山祗の大切な後継者であり、それが博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ神)の白族=天御中主命の流れを汲む市杵島姫、豊玉姫を妃として言わば入婿になります。

では、大山祗系は如何に後裔を維持しようとしたのでしょうか?

これは後に分かるのですが、大山祗系は神大市姫=ミヅハノメを中心に後裔を維持している様なのです。

これが、日向に行くとやたら稲荷社が多い理由であり、それは稲荷様=伏見稲荷様がそのミヅハノメとスサノウとの間に生れた辛国息長大姫大目命だからであり、列島全体に大展開し蔓延っている事で少しは納得できるのではないでしょうか。

つまり、半島南部の金武官伽耶の金海金武氏のウマシアシカビヒコチと天御中主命が夫婦となり、続く大幡主の世代では大幡主の妹である埴安姫を大山祗の妃とし(当初は金山彦の妃となり櫛稲田姫を生むが後に大山祗の妃となり)神大市姫、大国主命、木花咲弥比売を生むのですから、埴安姫は古代史の世界の美女櫛稲田姫、木花咲弥比売を生むそれほど美しい女神様だった事が判るのです。

次の世代では大国主命は宗像三女神のお二人をお妃していますので、三世代に亘って同族と言っても良いような強固な姻戚関係を結んでいた事が判って来るのです。

この大幡主系(白族)、大山祗系(恐らくトルコ系匈奴)、金山彦系(イスラエル系)民族ともに強固な姻戚関係を相互に結んでおり、これが古代九州王朝を支える最も重要な民族、氏族だったのです。

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イスラエル系金山彦(秦の始皇帝贏政とも同族として姻戚関係を結んでいる)は埴安姫をお妃として強力なスクラムを組み、金山彦(瀛氏)+白族+大山祗(トルコ系匈奴)は、スサノウ系昔氏(ソクシ)と合わせ共に強固なスクラムを組んでいるのです。

そして、この神輿に乗ったのが江南の呉国から列島に避退した呉の夫差の後裔達(九州王朝系天皇:神武、懿徳、孝霊、孝元、開化、仁徳…)だったのです。

綏靖、安寧(カミムスビ=九州王朝を支えた将軍=大幡主)、孝昭(草部吉見=海幸彦=ヒコヤイミミ)、孝安(玉名疋野神社主神)は後の藤原が自らのウイングを拡げるために天皇扱いにした贈)天皇で血統も民族も異なる只の有力豪族に過ぎないのです。こんなことは現天皇家もちゃんと知っているはずです。

とにかく大国主命を出雲の人と考える安直な思い込みだけは好い加減にして欲しいものです。

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長崎市のグラバー亭の東にも何故か出雲地名があるのですがご存じですか?飯塚市桂川の出雲は必ずしも孤立地名でもないのです。しかも隣接して川上地名(ニュウ川上)があるのも意味があるはずなのです。

以前から「出雲」地名は「イヅモ」と読むべきではなく「イン」の置換えではないかと考えていました。

つまり、阿波の忌部の「忌」地名の一つを「出雲」と表記しているだけではないかと考えています。

忌、伊美、揖斐(M音とB音入れ替わり)が「出雲」と表記されているだけなのです。

ヤタガラス〜大国主命の支配領域が忌部ですので、方々に多くの忌部の地名があったと考えています。


このブログの利用の仕方について


このブログは単独で読まれても良いのですが、これまで書いてきた百嶋説の再構成に過ぎません。

ただ、並行して開始した百嶋神社考古学研究という各々のNO.のユーチューブの音声(動画)をサポートするために作成しているもので、言わば話す通りの内容をブログにしているものです。

このため、ユーチューブの音声動画を聴きながら、写真、図表、地図、神代系譜、手書きメモ…をブログで確認する事が出来るように、同一タイトルの動画とブログを二本立てで発信しているものです。

ネット上で、音声とブログを同時に再生し、神代系譜などをご確認下さい。

ユーチューブでは、資料の編集の手間が掛かりますが、ブログなら簡単であり、アドリブを効かせた話と資料を二重に再生する事によってより深く検索し確認する事も可能になるのです。

従来、ユーチューブ動画ではどこかで話していた内容を検索し探し出す事が出来ませんでした。

分かっていたとしても、どの部分でどう話していたかの検索ができませんでした。

この問題を解消するためにブログと音声動画とを二本立てにしたものです。

両方とも同じタイトルとしていますので動画とブログをセットで検索して下さい。


百嶋由一郎神社考古学研究会事務局


内容等に対する問い合わせは事務局中島090-5289-2994までお願いします。

現在、百嶋由一郎研究に影響を受けたブログは全国で256件を超えており、九州島内で活動中のブロガーだけでも10名近くに増えています。

既存の九州王朝論者の組織が研究者を失い、存続しているとしても通説派の教育委員会関係者とか学芸員などから都合の良い話を拝聴し拍手喝采するという体たらくを見せているのです。

ましてや村興し町興し果ては世界遺産登録に狂奔する行政の尻尾に成り下がりそれに迎合する研究だけが受け入れられる状況には目を覆いたくなります。

九州王朝論研究は九州王朝論者の中からしか生まれません。全国の九州王朝論者の皆さん、今後も「宇佐神宮は九州王朝の神宮であった」「神功皇后と高良玉垂命=開化天皇とは夫婦だった」「山幸彦は塩土翁の配下で製塩を行なっていた」「景行天皇は玉名市の出身」…といった話を公開して行きます。

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