2021年07月10日

013 大国主命の生誕地から生育地を探る “福岡県春日市の伯玄社”

013 大国主命の生誕地から生育地を探る “福岡県春日市の伯玄社”

20210616

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


今回は大国主命が現出雲で生まれた人などでは全くなく九州で生まれており、当然その生育地も博多の周辺だったのではないかという提案をしてみたいと思います。まず、大国主命は元々現出雲の人などではなかったのです。神話でも大きな袋を携えて登場しますが、まあ、それが本当だったとしても、大きな袋とは九州から出雲へと移動したからこそ必要だったのであり、神話でもその旅で兎と遭遇しているのです。

無題.png

この移動とは何かと言えば、これまでお話してきた高木大神+草部吉見(海幸彦)連合に強要された国譲りの結果、現出雲に配置転換されたが故の移動だったと考えられるのです。

 では、最終神代系譜を再度ご覧ください。大国主命は、市杵島姫、豊玉姫という大幡主(実はカミムスビ)、豊玉彦(ヤタガラス)の流れを汲む宗像三女神のお二人をお妃にしています(実は大国主が瀕死の重傷を負い死んだと思われた時に看病に送られたのが二人の女神キサガイヒメウムガイヒメなのです)。

 そのような厚遇を受けたのが大国主であり、これは大山祗系と大幡主系の強力な姻戚関係(相互に互いの兄弟姉妹と政略結婚させる)によって創られた海と陸を支配する仕組みが存在していたからなのです。

 大国主命は確かに日向の大山祗の子である以上日向の人=熊襲なのですが、母神が海人族の大幡主の妹の埴安姫ですから、当然、実家の博多周辺で産まれているはずです(海人族は里に帰って出産しますね)。

ただ、かなり若い段階で博多湾周辺に移動し、大幡主の元で生活していたと思われるのです。

実はその痕跡があるのです。それは、福岡市の南の春日市の商工会の敷地に残された若き大国主命を祀るある神社がそのことを証言しているのです。

まあ、六世の孫とは他人みたいなものですが、一般的には9世紀初頭の「新選姓氏録」に「宗形(むなかた)の君、大国主命六世の孫、吾田片隅命の後なり」とあることでも一応の推測が付くはずなのです。

 ただ、それを殊更に宗像三女神の神社であるとしたのは、近畿大和政権にとって不倶戴天の敵である熊襲の頭目の大国主命を封じ込める必要性があったからに他ならないのです。

以下、ひぼろぎ逍遥の古川氏が以下で取り上げておられますので、再度、お読み頂きたいと思います。 


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

24

大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)

を祀る春日市の伯玄社”


054 伯玄社


伯玄(はっけん)さん(無類の力持ち、働き者で頓知に富んだとされる人物)が伯玄の丘に働き神としてまつられ、民話として語り継がれている。


大国主命と言えば神話の世界の大スターですが、多くの皆さんは出雲辺りにいたと信じて疑いをお持ちではないことでしょう。

しかし、百嶋神社考古学では全く異なります。

大国主の先祖は半島、古くは大陸からの渡来神であり、恐らく出雲神話の舞台も半分以上は北部九州とされていたようです。

今回ご紹介するのは、最低でも幼少期は福岡県春日市にいたとする、ほぼ、物証に近いものかも知れません。


伯玄社 福岡県春日市伯玄町2丁目24 春日市商工会敷地内  092-581-1407カーナビ検索

無題.png
無題.png

通常、大己貴神(オオナムチ)は大国主命の別名として扱われます。

また、「古事記」では「大国主の子供の頃の名前」とします。

百嶋先生は地元の神社でもあることから、くまなくフィールド・ワークを行っておられていたようです。

相当、深いところまで調べておられたはずで、草ケ江神代史研究会に密かに伝承されてきた情報と重ね合わせ、この伯玄社に祀られた神はオオナムチになる前の幼名であることをご存じだったのです。

さらに、狗奴国の乱の中心人物である大山祇神(=月読命)の子が大国主命=オオナムチであり、狗奴国の乱の政治的責任の一端をこのオオナムチも負っていたと言われています。

ここまでくるとかなり高度な話であり、記紀神話を金科玉条とする方々からは何を馬鹿な!と言われることは重々承知していますが、百嶋説の継承者としてはそうとしか言えないのです。

まず、大国主命はスサノウの子であるとか、六世、七世の孫だとかされています。

百嶋神代系譜を見ると、大山祇神と草野姫との間に生れた神大市姫の弟、木花咲姫の兄になります。

この大国主命の母親草野姫(埴安姫)は同時にイスラエル系の金山彦(金鑚大神)の妃として櫛稲田姫を生んでいるため、スサノウにとってこの埴安姫は母親になる訳で、結果として、大国主命はタネ違いながらスサノウの義理の息子と言えないこともないのです。

この点、子とする「日本書紀」は「古事記」よりは正しそうに見えますが、まだ、全く暗中模索が続きます。

この伯玄社は古墳時代に先行する弥生の遺跡(伯玄社)の上に置かれています。

柳葉型磨製石鏃、支石墓、甕棺、土壙墓、貝輪など、雑餉隈遺跡などと同じ系統だと思いますが、朝鮮半島との関係が考えられます。

大国主命は「古事記」がスサノウの6代の子としたことから、神社研究者の間では出雲系とか新羅系と考えられています。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


まず、百嶋由一郎が残した最終神代系譜を掲示していますので、これから考えて見ましょう。

大国主命は、姉がミヅハノメ、妹がコノハナノサクヤヒメという大山祗(トルコ系匈奴と白族の子)の子であり、母がこれまた白族の埴安姫ですので、一体化が進むカミムスビこと大幡主、大山祗連合への入り婿でもあり後継者でもあった事になります(白族について関心をお持ちの方はネット検索を行ってください)。

 一方、マサカツアカツこと天忍穂耳命=草部吉見神は北部九州の先住者であった高木大神の次女タクハタチヂヒメ=栲幡千千姫萬幡姫を妃としている事から、阿蘇高森の草部吉見一派は高木大神系=タカミムスビ系になる訳です。

 まあ、天照大御神も呉の太伯の流れを汲む列島大率姫氏と高木大神の淑叔母を母神としている事から一応は高木大神系と言えるのです。

 天忍穂耳命=草部吉見神が天照の子だとか弟だとか言った話は与太話としても、高木大神+天照+草部吉見という葦原中つ国+北の筑豊を大国主命の臣下である建御名方からこれまた強奪し(田川郡を中心に諏訪神社が一社を除き消えている)、彦山の南北を安定化させたという事からは、それに限って三悪人の名が適当かと思うのです。つまり、タカミムスビVSカミムスビの代理戦争と言えそうなのです。

では話を替えます。

付近には有名な須久岡本遺跡もありますが、様式の違いから、まずは、征服者、被征服者の関係が考えられそうです。

百嶋神代系譜によって民族の衝突、征服、被征服、融合が認められるのですが、考古学的推定と神社からの神代研究が結びつけば面白いですね。直ぐに結論に飛びつくのはまだまだ危険でしょう。

ともあれ、大国主の幼名=オオナビコを祀る神社が残されている事は奇跡に近く、有難いと思うばかりです。多分、その事を知る人々(恐らく伯玄町の方々なのでしょうが)のご尽力には敬服するばかりです。

オオナビコがオオナムチよりも若い時代の名前であるとして、他に同名の神社が一切ない以上、少なくとも、白族出身の母を持ち、トルコ系の父を持つ若きプリンスがここにいたとすれば、オオナムチの出身地は春日丘陵一帯だったとまでは言えそうです。朝鮮半島からの渡来人と衝突する場所は北部九州です。

以前から主張しているように、大国主命が譲った国は九州であり、出雲神話の舞台はやはり九州なのです。「牛島稔太のHP」のマネージャーである牛島氏が、「神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 --- で百嶋講演を文字化しておられますので、以下、伯玄社について話されたことをご紹介します。


 ひぼろぎ逍遥

260

若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る

“春日市の白玄社”への再訪!


260 若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る“春日市の白玄社”への再訪!


詳しくは、前掲のブログを読んでもらうとして、今回は、神仏混淆化された参拝殿(お堂)の裏に石造りの神殿の神額を見て頂きたいのです。

実は、前回訪問した時は、文字が書かれているとは考えていなかったのですが、今回、訪問すると、ちゃんと書かれている事に気付いたため、改めてお知らせする事にしたものです。

通常は、ボロタオルを用意して水に濡らして表面を拭けばだいたい文字が浮かび上がるのでどなたも試してみて頂きたいと思います。

デジタル・カメラで撮影した画像を、コントラスト、明るさをパソコンで調整しても文字が浮かび上がる事があるのですが、まずは、このような簡単な方法でもなんとかなるものなのです。

無題.png

白玄社(上)神殿           神額(下)


「大巳彦神」と彫り込まれていることはお分かりになるでしょう


これを読まれれば、少彦名命が春日市の須久岡本遺跡のある須久に住んでいた須久の彦だったことがお分かり頂けるのではないでしょうか?「スクナ」は「スクノ」の古形であり、今でも「そこな御人」「そこな女子」といった言葉が落語などに留められている事が思い浮かばれます。所有の格助詞の「な」がスクナヒコナ命の意味つまり、スクの彦の命がその意味だったのです。

すると、春日市商工会議所敷地内に残された伯玄社にオオナビコとスクナヒコナノミコトとは幼馴染であった事までが見えてくるのであり、神話の世界が現実の歴史の世界に引き下ろされて来るのです。

最後に、大国主の国譲りの結果、最終的に大国主もしくは、その配下の大国主の一党が移動していった

旧出雲の一つが現出雲であり、移動先(移転先)が現出雲だったことが見えてくるのです。

従って、現出雲とは近畿大和朝廷が創ったものであり、因幡の白兎神話の舞台とか大国主が大怪我をしてウムギヒメ、キサガイヒメが介護に送り込まれた現場といいテーマ・パークでしかないのです。

このことは、九州の大国主祭祀圏の再検討再調査が極めて重要であることを示しているのです。


須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)は、福岡県春日市岡本にある遺跡群。

福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置する、周辺の南北2キロメートル、東西 1キロメートルの範囲の弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡等)を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。1986年(昭和61年)624日、国の史跡に指定された。

この遺跡の中の巨石下甕棺墓(古名称は須玖岡本遺跡)は明治期に発見されたもので、その後遺物は散逸していて、正確な数値は不明である。


若き大国主命は福岡県春日市周辺にいた。では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについても、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いておられますのでお読み頂きたいと思います。

無題.png面白いのは、この直ぐ近くに有名な須久岡本遺跡があることです。

故)百嶋先生は“少彦名命をスクナヒコナと読むから分からない、スクの彦の命と読めば良く分かる”と言われていました。「そこなオナゴ名は何と申す…」のそこなの「な」はそこのオナゴという時の所有の意味を持たせる格助詞のノ=ナであることは明らかで、須久に住んでいる彦であって、若き大巳彦=大国主命と少彦名命とが幼馴染だった事がただちに浮かんでくるのです。


須玖岡本遺跡は、福岡県春日市岡本にある遺跡群。 福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置する、周辺の南北2キロメートル、東西 1キロメートルの範囲の弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。

無題.png
posted by 奈東南雄 at 08:35| Comment(0) | 日記

2021年06月24日

012 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “筑前町弥永の日隅宮”

012 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “筑前町弥永の日隅宮”

20210521

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


 では、今回の出雲の国譲りに関する一連の話の証拠と言うほどのものではありませんが、決め手に近いものをお示ししてこのシリーズの論証部分を一旦は締めたいと思います。

 詳細については太宰府地名研究会の宮原誠一氏(「宮原誠一の神社見聞諜」)、古川清久氏(ひぼろぎ逍遥外2本)、「事代主のブログ」○○氏…などのブログをお読み頂ければより鮮明になるでしょう。

 尚、百嶋神社考古学研究会という呼称は今後の展開に備え準備したもので、全員のコンセンサスを得たものではありません。ただ、下手な古代史(邪馬台国畿内説、東遷説などは問題にもなりませんが、仮に九州王朝論に立つものであったとしても、この立脚点を持たない限り何の将来も存在しないと考えている事によります)、現在の研究者も後20年もすればいずれ活動できなくなるでしょう。これに対しては新たな若手の研究者の養成をしなければならず、その受け皿を造るためと考えている訳です。

元々、「地名研究会」という素人まがいの呼称はダミーでしかなく、ただただ、量的に拡大させるためのマヌーバでした。真面目な探求者、研究者、記録者…に集まって頂くには新たな箱が必要なのです。

 では、本題に入ります。筑前町弥永の大巳貴神社から数百メートル降り、右手の住宅地がある裏手から広がる山裾の小丘に天神社とも田神社とも呼ばれる小さな社がありますが、この境内の一角に日隅宮なる石の祠が置かれているのです。

 そして、この地、大字弥永には日隅宮(ウヅノミヤ)があり、その祠もその小字に置かれていたのです。記録によれば、字ウヅノミヤから後に字古寺に移され、この田神社に合祀されていたというのです。

無題.png

まず、上の写真を見ると、小石原川の傍に安川郵便局があるように、現小石原川こそ天の安川だったようにも見えます。小石原川と呼ばれたのは旧小石原村が高木大神の本拠地である彦山の西の拠点であり、その後安川という呼称は消されたように思えます。近畿大和朝廷成立後は九州に三輪山や安川があっては彼らは困るからです。

また、大巳貴神社は後からできた岬状地に造られているように見えます。これはその後の再建地ですね。では、元はどこにあったのでしょう。やはり日隅宮(ヒスミノミヤ)ではなくウヅノミヤなのです。

一つの可能性でしかないのですが、結局、それは、日隅宮(田神社)に移動してくる以前の日隅宮が鎮座していた字ウヅノミヤと言う事になるのではないでしょうか(ここで持て囃された出雲大社の芯柱が宇豆柱=ウヅバシラと呼ばれていた事を思いだして下さい)。

さて、この筑前町一帯は戦後の国土調査が始められた時期が最も早かった地区だったようです。

その調査の結果「日隅宮」という小字名は消されているのですが、非常に幸いなことに明治15年に全国の小字を回収した所謂「全国小字調査」には記録が残されていたのです。これついては後述するとして、まずは、田神社をご覧頂きます。

無題.png

今さらながら私達が気付くまで良くぞ残っていてくれた。との思いを禁じえません。

確かに地元の郷土史会は、記録を残してくれています。しかし、その会もいつしか消失し、さらに合併によって筑前町となった後は現実にこの記録の重要性に気付き、保存に尽力すると言う意識を持った方々は既に存在していないのです。

学会通説の型通りの解析ではこんなところに「出雲神話」に関わる「日隅宮」などあるはずがないと謂わんばかりなのです。

このように金槌で頭を打たれると仮に貴重な文化財と言う認識を持った人が居たとしても、どうにでもなれとなってしまうのが当然で、この「日隅宮」に対して申し訳程度の記述を残し、新しい掲示板が造られてはいるもののその内容はかなり薄められている事はあきらかです。ただ、幸いなことにそれ以前の掲示板について当会の中島氏が写真を残していた事からその重要性を認識できたのであって、現在のそれでは見過ごしてしまうに決まっているのです。その掲示板とそれ以前の掲示板を読み比べられれば現教委がどのような考えをお持ちかは言わずもがなでしょう。本ブログとそれに連動するユーチューブに於いては視聴者聴取者のご判断にお任せしたいと思います。

無題.png

筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)


「古事記」や「出雲神話」を持ち上げ、通説にどれだけ通じているかを競うような権威主義的な方から、通説から離脱したものの学会通説に尾を振るようなさもしい人々まで出てくる世間ですが(村興し町興し世界遺産登録…)、百嶋神社考古学の者の目から見れば、殆ど漫画の世界でしかなく、現場を知らず、見ようともせず「記」「紀」を丸呑みする方々は今も、尚、後を絶ちません。その現場さえも自己保身のために無かった事にする旧石器ねつ造事件の藤村新一(本当は彼を利用した連中が外にもいるのです)の様な人々も後を絶たないのですから(ニシダニも)、貴重この上ない資料を何故保存しようとされないのでしょうか?ともあれ、これが記録として残されただけでも幸運だったように思えます。

要は「日隅宮」は国譲りの代償として高木大神が建ててやる(建てさせる)とした神殿の名称なのです。

では、「出雲国風土記」も見ておきましょう。引用は、「出雲の八咫烏 出雲神話 古代出雲族」です。


無題.png天日隅宮  杵築の大社 「出雲大社」

「神魂命(かみむすひのみこと)詔りたまひしく、「五十足(いた)る天日栖宮(あめのひすみのみや)の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の栲紲(たくなは)持ちて、百八十(ももやそ)結びに結び下(た)れて、此の天(あめ)の御量(みはかり)持ちて、天下(あめのした)造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ」と詔りたまいて…。」

記紀によれば、国譲りにより葦原中つ国を天孫に奉還した大国主命が、退いて幽冥(かくりよ)主宰の神となるにあたり、大神の住まう宮殿を造るよう求め、天照大神が諸々の神に命じ造営させたとありますが、「出雲国風土記」によれば、八束水臣津野命の国引き事業の後に神魂命(かみむすひのみこと)の命により、天御鳥命(あめのみとりのみこと)が造営したとあります。


八束水臣津野命とは大国主命その人ですが、八束水臣津野命 も国譲りを強要した草部吉見こと武甕槌=海幸彦が業績を奪っているようにも見えます。神魂命(出雲現地ではカモスの神と呼んでますよね、カミムスビをカモスと呼んでいるのです)は、神産巣日神(カミムスビ)そのものの大幡主の事です。

天御鳥命 はその子ヤタガラス=豊玉彦であり、実際には大分県日田市を基盤にしていた(だから豊玉彦なのですが)ヤタガラスが神殿を建て替えてやった事になるのです。

無題.png

百嶋由一郎 009八束水臣津野命 神代系譜


長浜神社は出雲大社以上に重要な神社です。是非ご参拝を…。この長浜は、博多港正面の「長浜」その地名移動で、古くは非常に長い砂浜が存在していたのです。この置換えが出雲の長浜神社になるのです。

博多と出雲は一衣帯水であると前述しましたが、博多を最重要拠点とした海人族の古くからの植民国家が出雲だったのです。

年齢が18581862(便宜的に西暦2000年を基準に表した積年)と明らかに異なるため、大国主と海幸彦が同一人物だったという意味ではなく、業績を奪い消し去る事例を表示されているようです。


無題.png  日本書記と出雲 佐藤雄一より転載

無題.png
無題.png
無題.png
無題.png

通称「明治15年全国小字調べ」

無題.png
無題.png
無題.png
posted by 奈東南雄 at 03:11| Comment(0) | 日記

2021年06月15日

011 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “旧夜須町の大巳貴神社”

011 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “旧夜須町の大巳貴神社”

20210518

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄

 この話について百嶋先生は一言も断定も明言もされていませんでしたが、これまでの条件から言えばこの地以外にはありえないと考えたことから当グループ内ではコンセンサスが進んでいるところです。

 ただ、一般的にはどうかと言えば、このような突飛な話を持ち出すのは全国でも我々だけであって、“これまでの郷土史家と言われる方々は一体何をやっていたのだろうか?”と不思議に思うばかりです。

 恐らく通説派の学者などから吹き込まれ彼らの下請け的に視野の狭い活動を強いられてきたからだろうとは思うのですが、何時の時代もエピゴーネンどもは蔓延り続ける物だと思うばかりです。

無題.png

福岡県は筑後川北岸の沃地(筑前地方)=葦原中ツ国を


非難を受けることは重々覚悟していますが、今では全体的背景、個別的資料、物証と言える現存物…と客観的な条件が浮き上がってきているのです。

無題.png

考えれば「出雲の国譲り」とは非常に奇妙な話です。天の岩戸隠れの時もでしたが、出雲の国譲りの時にも天安河に神集(カミツドイ)いし対応策を談合しています。

部分的ですが、「日本書紀」でも高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)が国譲りを大国主(オオクニヌシ)に迫る時に「天安河に打ち橋をかける」と約束しています。

この神々の談合に於いて天照大御神は葦原中つ国は日嗣の御子が治めるべき土地であるとして国譲りを強硬に主張します。

勿論、その背後にいて画策したのは明らかに高皇産靈尊=高木大神だったと考えられます。

 この安河ですが、筑前町ではなく現朝倉市西部の領域に下渕(旧安川村)、 甘水(旧安川村)、 隈江(旧安川村)、 持丸(旧安川村)、 千手(旧安川村)、 長谷山(旧安川村)、 楢原(旧安川村)があり、現在の彦山西麓の旧小石原村(現東峰村)から流れ出す小石原川流域こそが旧安川だった事を思わせるのです。

 朝倉市、朝倉郡は、古代より筑前国15郡の「夜須」「上座」「下座」3郡をなし、「和名抄」でも下座を下都安佐久良(シモツアサクラ)、「延喜式」も上座を上都安佐久良と記している。

 一方、現筑前町は旧夜須町+旧三輪町(夜須郡 古代安郡)によるもので、「安」は直接天の安川に通じると考えるべきなのです。三輪山も神功皇后の目配山と変えられていますが、三輪山も本来ここなのです。

 その背後には、彦山を本拠地とする高木大神(高皇産靈尊)、武甕槌(草部吉見=ヒコヤイミミ高木の次女を妃とする)、天照大御神(高木大神の叔母と列島大率姫氏の娘)という強固な勢力が存在していたのです。さて、外部の方はご存じないでしょうが、この地(筑前町弥永)には何故か堂々たる県社オオナムチ神社があります。

無題.png

オオナムチ神社も昔は「大国主神社」の看板を大っぴらに出していたのですが、最近、何故か表に出してはおられません。

 それはともかく、この地に何故出雲の神様がおられるのかについては、地元郷土史家は元より、九州王朝論者に於いても全く見当が着かないようで、神社の側でもオオナムチ神社と名乗っているにも拘らず大国主命を表看板では引っ込めておられるようです。替わって神功皇后の兵を集める話を前面に押し出しておられる事からは、既にこの大国主祭祀には神社自らが不思議に思っておられるふしがあるのです。

 勿論、私達もそう思っていた訳です。

 ところが、九州全域の大国主命祭祀を拾い出す中で、これまで十数社を越える祭祀を見出したとして手ごたえを感じていたのでしたが、新たに長崎県だけで主神として大国主命を祀る神社が90社もある事を発見するにつけ、この神社はもしかしたら本物ではないかと思うに至ったのでした。

無題.png

「福岡県神社誌」を全文掲載していますのでお読み頂くとして、依然、これだけでは核心は拾えません。 祭神は天照大御神、大巳貴命、春日大神としています。これをそのまま真に受ける危険性はあるのですが、いずれにせよ国譲りの結果、大幡主系、無題.png大国主系を排除したのですから、彦山の高木大神系、草部吉見系の祭神に替えられていると見るべきでしょう。 

 右は、参拝殿上部の壁面にある大国主命暗示するモチーフで通常「波乗り兎」と呼ばれます。

 神殿ではなく参拝殿の右手に鮮やかに残されています。当然、因幡の白兎の故事に因む物です。

まず、境内最初の鳥居の先の参道左に大行事と書かれた石塔があるように、この神社も高木大神系に制圧されていた事は明らかで、当然にも境内社として八幡宮、八幡神社が3社もあるのも頷けるところです。 た無題.pngだ、神殿背後にある祠だけは大幡主=カミムスビを祀る正八幡神社であろう(あった)と考えています。

 祭神の天照は高木大神の親族ですから当然として、ここでの春日大神も藤原の軍神=奈良の春日大社とならざるを得ないのですが、もしかしたら藤原の祖である草部吉見の後の妃である辛国息長大姫大目命の母君=ミヅハノメ(大国主命の姉)なのかも知れません。

 今や、参拝殿左手にオチャラケた大国主像が置かれているだけで、全くのお伽話に仕立てられているのです。

オオナムチ神社の名も何れ消される運命なのかも知れません。

 しかし、この地にはしばらく前まで三輪町がありました。

また、神功皇后伝承から消された様ですが、目配山とされた三輪山があったのです。実に興味深い謎のエリアなのです。ではここからさらに話を動かします。

出雲神話の中でも国譲りの話はその根幹を成しています。それは、葦原中津国の平定こそが天津神々(所謂天孫族:高御産巣日神=タカミムスビ、高木大神の息子ニニギ、後の天照大御神=オオヒルメムチ)にとって極めて重要な事だったからだと考えられるからです。

ところが、そこがどこであるかが判然としないのです。

単純に言えば葦原中津国とされる出雲の支配権を奪われた大国主は何故出雲にいるのでしょう?

これは後の藤原が造ったテーマ・パークとしての出雲王国だからであって、簡単に言えば九州の沃地である葦原中つ国を奪われ、追われ移動した先が現出雲だったと考えるべきなのです。

「古事記」の出雲の国譲り神話を単純化すれば、天つ国である山上の国の高天原から地上の国とする葦原中つ国の支配権を大国主命から受け継ぐという神話です。「記」、「紀」でこの神話がもたらす理解は大きく、天皇家による列島支配権の正当性を詠っているのです。

結局、この神話がなければ、天孫降臨神話は只の侵略にしかならず、神武東征に始まる近畿天皇家支配の正当性は説得力に消失する事になりかねないのです。

「古事記」によれば、高天原からアメノホヒ(豊玉彦=ヤタガラス=カミムスビの子)が使者として派遣されますが、彼はオオクニヌシに取り込まれて3年経っても復命しないのです。

次にアメノワカヒコが弓と矢を貰い国譲りを要求しますが、これも8年経っても復命しないのです。

その後も工作は続きますが、タケミカヅチとアメノトリフネが派遣され、タケミカヅチは十拳剣を波頭にさかさまに立て、その剣先にどっかとあぐらをかいてオオクニヌシに国譲りを迫るのです。

そこでオオクニヌシは「年老いた自分では決められない」と、わが子であるコトシロヌシに判断を委ねます。コトシロヌシが国譲りに同意すると、「もう一人の子どもであるタケミナカタにも聞いてほしい」と、言いました。タケミナカタはすぐには賛成せず、「力比べで勝負してきめよう」と、タケミカヅチに挑みますが、敗れて逃げ出し、信濃の諏訪湖で追い詰められてこの国から出ないことにより許されるのです。

二人の子どもが同意した事により、オオクニヌシも国譲りを受け入れ、「その代わり、立派な宮殿と同じくらい立派なものにしてくれ」と言ったとされているのです。

好い加減な記憶で、記紀を混同させながら、非常に簡略化した話にしましたが、詳細は原典を読まれるなりネット上にも多くの研究資料が落ちていますのでそちらをお読み下さい。

 そこで次回取り上げようと思っているのがほんの50年ほど前まで実在していた(実は今も現存していたのです)代替えの神殿としての「日隅宮」(現地ではウヅノミヤ)に関わる話です。

 この話に入り込む前に、この大巳貴神社の周辺と併せて考えて頂くことにします。


葦原中つ国を威圧する彦山の高御産巣日神系天孫族

無題.png大分県日田市はその中心部の田島(宗像大社辺津宮と同一)に大原八幡宮が鎮座し、繁華街に玉川町があるように、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの子であるヤタガラス=豊玉彦の支配領域であることは間違いないでしょう。

 対して、甘木、朝倉、把木という現朝倉市が本来は大幡主=カミムスビの支配領域であり、それを継承した大国主命の支配領域であった事は田神社の論証に依りある程度ご理解頂いたと考えています。

 しかし、その沃土を脅かす勢力が勢力を拡大させていたのです。

 それが、北の山岳地帯を基盤とした彦山山岳修験の武装パルチザン勢力であり、その背後にいるのが高木大神ことタカミムスビだったのです。この勢力は筑前町から日田市までの直線で2030キロの場所にあり、半日を待たずして平地に駆け降り地域を一気に制圧できるだけの力を持っていたのでした。そして、それが彦山山岳修験だったのです。この事を象徴するかのように今も大巳貴神社の鳥居の傍に大行事社の石碑が残されています。

かつて、この地も高木大神系の制圧下にあった事を象徴しているのです。

無題.png

無題.png彼らは彦山の周りに事実上の行政機関としての48大行事社を置き下界を圧していたのでした。

 ここで、敬愛するブログ「正見行脚」氏から大行事社(高木神社)を細切れながら引用させて頂きます。


佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)


英彦山(田川郡添田町)は、天照大神の御子天忍骨尊(天忍穂耳尊)が天下った霊山故に、当初は「日子の山」といわれ、天忍骨尊が英彦山神宮(英彦山頂上宮)に祀られているが、本来、英彦山頂に祀られていたのは山頂直下にある「産霊(むすび)神社」の祭神高皇産霊神だったのではないかとの説がある。
 それ故に高皇産霊神を祀る高木神社(旧大行事社)が英彦山神領を守るように英彦山を取り巻いて鎮座しているのだろう。
()英彦山は、もとは彦山だったが、1729年(享保14年)の霊元法皇院宣で「英彦山」の表記となった。 
()彦山神領「大行事社」は、明治維新後、「高木神社」に改称、高貴な祭神高皇産霊(たかみむすび)を祀る神社ということから「高木神社」としたのだろう。
 「佐田高木神社」境内に立つ「神社を後にして御幣を手にして金剛杖をつき笈を背負って行脚する山伏のイラスト(画像3)を載せた陶器「案内板」には次のように記されている。
 無題.png「大行事社ともいう。黒川宮園にある高木神社同様、彦山の方七里(約二八キロ四方)の神領内におかれた鎮守社の一つ。彦山の山麓にはこうした社があわせて四十八あり、彦山を取り囲むように配置されていたといわれている。
 また、この地は彦山詣の道筋であり、信仰心のあつい人々が佐田仏谷通堂(とおりどう)をぬけ、この社を後に彦山へ向かった往時の情景がいまもしのばれる。現在、祭礼は毎年十月二十三日に行われている。」
 因みに、山伏の彦山修験では彦山霊仙寺末社ともいう英彦山神領四十八大行事社(末社高木神社)のすべてが現存しているものかどうかは分からないが、高木神社でヒットした次の30社の鎮座地を参考までに下記しておく。
 ただし、この30社のなかには合併などでなくなっている神社もあるのではないかとも思うが、すべての所在の確認をしている分けではないので、現時点で現存有無の区別はできない。


当方も48大行事社については1020社は廻っていますが、徐々に神社を維持する意味も習慣も薄れつつあるのですが、大行事という地名も含め尚もかなりの数の神社が今も多数の存在しているのです。

 無題.pngいずれにせよ神集いし葦原中つ国の国譲りの談合を行った天の安川=安川(朝倉市甘木〜旧夜須町)があり、筑前町弥永に大巳貴神社が現存し、大幡主こと神産巣日神の支配領域を表現する60もの田神社があり、彦山には高御産巣日神を筆頭に、その次女栲幡千千を妃とした天之忍穂耳命=正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊=草部吉見=ヒコヤイミミ(実は国譲りを強要した武甕槌)が祀られ、この一帯に全ての役者がそろっているのです。ここで百嶋神社考古学の立場からさらに踏み込み、 

高御産巣日神、天照大御神、高木大神、天之忍穂耳命の関係を確認し、何故、国譲りを強要したかをお話しし終わりとさせて頂きます。右は彦山上宮⇒
無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


百嶋由一郎最終神代系譜によって考えるとより鮮明になりますが、結局は天孫族=赤組(タカミムスビ系)VS国つ神=青組(カミムスビ系)+天御中主系の暗闘であり、彦山を拠点としていた高木大神がその周囲、特に南北の沃土を制圧し、国譲りを強要したのが出雲の国譲りの正体だったのです。

「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ)が治めるべき国である」とした。天照大御神を赤組に加えていますが、この女神は周王朝の末裔である列島大率姫氏と高木大神の叔母との間に生れた神武と腹違いの姉だったのです。

これについては、古川氏が書かれている ひぼろぎ逍遥(跡宮)737佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る などをお読み下さい。

とすると、天照は高木大神系の人物であり、大国主に国譲りを強要する高木大神グループであることが分かるのです。

彦山の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が赤組の実力部隊なのですが、彼こそ阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミであり、藤原氏の先祖なのです。

彼は高木大神の次女栲幡千千を妃としていることはその時点では入婿に近く、その範囲で高木大神系であると言えるのです。

一方、青組の大国主命は大山祗の息子なのですが、大幡主系の宗像三女神の市杵島姫と豊玉姫をお妃としているのです。

大山祗は有名なニニギとコノハナノサクヤの出会いから、南九州の人であることはほぼコンセンサスを得ているのですから、その息子が本来は南九州を地盤にしていた可能性は高いのです。

決して出雲で産まれた出雲出身者などとは考えるべきではないのです。

ここまで考えてくると、朝倉市の北、飯塚市桂川に、何故、出雲交差点が存在するのかも見えてくるのではないでしょうか?朝倉市一帯こそ国譲りの現場だったのです。

無題.png

010 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “福岡県朝倉市の田神社”でとりあげた田神社の現地調査で廻っていると、同じ弥永の田神社に驚くべき解説文を発見したのです。次回、続く012でこの話に入ります。

posted by 奈東南雄 at 00:00| Comment(0) | 日記