2021年09月21日

019 塩土老翁とは誰の事なのか? @ “アコウの大木が迎える日南海岸の野島神社から”

019 塩土老翁とは誰の事なのか? @ “アコウの大木が迎える日南海岸の野島神社から”

20210731

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


この間、朝倉郡こそが大国主命が国譲りを強要された「出雲」であったと言う話を展開して来ました。今後はここから少し離れ、海幸山幸神話とその周辺を探ってみたいと思います。

ただ、海幸彦については阿蘇氏と呼ばれる黎族の話をせざるを得なくなる事からこれはこれで大テーマになってしまいます。このためそれを避けて、山幸彦と塩土老翁との関係から話をしたいと思います。

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南に67キロも走れば有名な鵜戸神宮で更に56キロも走れば日南市油津の吾平津姫神社です

日南海岸最南部の海辺の小集落といった場所ですが、小内海の島陰の好適の泊地と言えるでしょう

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同社由緒


“浦島太郎をまつる野島神社”とは、かなり衝撃的なご由緒ですが、猿田彦が浦島太郎というのは如何にも不釣り合いな為、塩筒大神=塩土老翁が浦島太郎とされているとしか考えようはないでしょう。

そして、それは間違いがないのです。この話については、ひぼろぎ逍遥の古川氏が丹後半島の通称浦島神社の祭神を解析し、かなり詳しく展開されていますので、必要があれば後日ご紹介したいと思います。

百嶋神社考古学では塩土老翁を神皇霊産(カミムスビ)大神、猿田彦を山幸彦=ニギハヤヒとしますので、博多の櫛田神社の主神大幡主と山幸彦のコンビが製塩と搬送、販売を行なっていたのではないかという問題に直面します。

その前に、海幸山幸神話では山幸彦が釣針を失い途方に暮れている時に現れ、龍王のところへ行くようにアドバイスした人物が登場します。それが塩土老翁だった事を思い出して下さい。

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ワダツミ神社は最低でも2社はありますが、恐らく対馬でも木坂の海神神社の方なのでしょうか。

山幸彦=猿田彦は海を渡り龍宮に着き、龍王(豊玉彦=ヤタガラス)と会い、豊玉姫とも出会うのです。

ここで横(枝)道に入りますが、当グループの多数説では大幡主こと塩土老翁を神皇霊産(カミムスビ)大神を第3代安寧天皇ともします(残念ながら百嶋先生も暗示はされていましたが、結論は保留されており亡くなられています)。そこで、記紀の和風諡号を見て見ましょう。

「日本書紀」「古事記」は、ほとんど変わりがなく、磯城津彦玉手看天皇(紀)、師木津日子玉手見命(記)

と多少表記はことなるものの共に玉手箱を見た人物と言った印象を持ちますね。

 また、「日本書記」では雄略紀22年に浦島太郎の話が登場しますが、和風諡号は浦島太郎の話に重なりますね…。藤原によって第3代の安寧天皇とされた人物とはどうも大幡主らしいのです。

 ちなみに、この龍宮の主である豊玉彦=ヤタガラスの父神こそがカミムスビこと大幡主なのです

 蛇足になりますが、この天御中主の流れを引く白族の安寧天皇が第2代綏靖天皇(蘇民将来伝承の巨胆)の子などと言うのは大嘘でしかなく(最低でも親子関係などないのです)、この綏靖は阿蘇神社の最奥神殿に鎮座する金凝彦(カナコリヒコ)でしかないのです。大幡主も初代神武や綏靖などの子ではさらさらないのですが、この野島神社の由緒は無視できない重要なメッセジを残しているのです。

ここまで考えると大幡主命が浦島太郎にぐっと近づいたと思われませんか?当然、萬世一系など信じる価値など全くないのです。ただ、本来の呉の太伯の流れを汲む周王朝の末裔の流れは続いていたのです。

ただ、正統皇統呉の太伯の流れを汲む神武〜懿徳〜孝霊〜孝元〜開化〜仁徳という九州王朝系天皇は、天皇もしくは天皇ならずとも九州王朝に遣えた人物とは言えるのですが、その隙間に藤原が自らの勢力を拡張させるために天皇でも何でもない、しかし有力ではあった人物をちゃっかりと挿入させているのです。

これが分からないと、何も現場を調べることもなく、欠史8代などと惚けたことを主張しごちゃまぜにして真実を消し去ろうとする師匠受け売りだけの御用学者が繰り返し登場する余地を残す事になるのです。

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百嶋先生の説に従えば、この大幡主は元々雲南省の昆明や大理にいた白族の後裔(天御中主命は伯母にあたる)であり、大理からはメコン川(瓓滄江)を降りホーチミン市から黒潮の分流に乗り海南島の南西部に、昆明からはファン河(紅河)を降りハノイから正面の同じく同島の南西部に入り列島(熊本)に入っているのです。

同時期、同じく漢族などに追い詰められた黎族の一派(阿蘇氏のご先祖多氏)は雲南省麗江から大理の白族と共に海南島に入り、天草の苓北町から阿蘇に入っているのです。

このように、昆明の滇池に居た時代から船を造り青銅冶金もできる人々だったのです。

そして大幡主=カミムスビの一族とは大きな帆(幡)を持った船を駆使しインドシナから中国から半島まで武装商船隊を率いて交易を行なっていた人々だったのです。

当然、造船、外洋航海、従って交易ができる海人族の頭目でもあったのでした。

この人物の別名が「塩土老翁」でもあるのですが、ここでも由緒に「塩の神」と書かれているのです。

勿論、江戸期でも特別日向が製塩の地とされている訳でもないのですから、これは、カミムスビの神が塩筒大神の名の通り製塩、塩の販売に関わる人物であった事を知る伝承があったとしか思えないのです。

では、本当に古代製塩なるものが神世(神世と言っても起源後)にもあったのでしょうか?

塩は特に山中に住む人々にとってこそ最も渇望するものであり、それは時代が変わろうとも同じはずなのです。

非常に幸いなことですが、江戸期の製塩についての推定ができる専売公社の記録が残っており、明治初期の製塩高から幕末時代の製塩高を推定する事ができるのです。

これについては、当会のメンバーである ひぼろぎ逍遥 の古川氏もかなりの数のブログ(301 日南海岸の野島神社の塩筒大神(塩槌翁)と猿田彦(白髭大明神)の複合が肥後にも…)外 に紙面を割いておられますのでその一覧表をご紹介したいと思います。

残念なことに明治9年が最も古い資料ですが(単位は石)、これでも大体の傾向が見て取れます。

良く知られる赤穂の塩の播磨国が第3位で740,350石、2位が遠州 遠江の1,462,667石、1位が肥前(これは実質天草のことで当時は現長崎県の肥前国扱いなのです)で、2,675,550石と、赤穂の塩の倍が遠州の浜名湖で、そのまた倍の天草を中心とする肥前国(全国の2割以上)だったのです。

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そして、この米が採れないが故に発達した天草を中心とする古代製塩地帯に特徴的に祀られる祭祀が大幡主とその配下の山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒであることを古川氏が気付いていたのでした。

詳しくは農商務省のデータはPDFデータでネット上に公表されていますのでご自分で確認して下さい。

この天草に於ける製塩に大幡主=カミムスビ=塩土老翁と山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒが関係している事についての話に踏み込む前に、何故、特に野島神社などでは塩筒大神と呼ばれているかを考えましょう。

味塩コショウとか醤油とか味噌といったものが身近にある時代というものはほんのここ150200年のことであって、仮に80年程前を考えても、山間部では醤油が手軽に手に入る事はなかったのでした。

従って、阿蘇の郷土料理として知られる味噌田楽とか味噌仕立ての団子汁と言ったものを考えても、醤油の普及が山間部ではかなり遅れたことを物語っているのです。そもそも味噌は塩を手に入れ自前で造るのが当たり前だったのです。つまり手前味噌です。

ましてや、我々が考える神代(造化三神〜天照、神武時代とは紀元23世紀)には塩の確保と言うものは実に重要な生存に関わる要請だったのです。

では、海水が直ぐに手に入る海岸部はどうだったのでしょう。

古代〜神代、海岸部でも、鉄鍋などのない時代は、石焼料理と言われる方法が採られていたのです。

海岸には海水が溜まったタイド・プールもありますが、そこに調理(鱗落し内臓落し)済みの魚を入れて焼き石を放り込んで一気に炊き上げる方法が現代まで続けられているのです。

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posted by 奈東南雄 at 22:34| Comment(0) | 日記

2021年08月21日

018 朝倉郡に於けるトルコ系匈奴の痕跡 A “福岡県朝倉市杷木の大山祗神社”2/2

018 朝倉郡に於けるトルコ系匈奴の痕跡 A “福岡県朝倉市杷木の大山祗神社”2/2

20210727

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


 まず、燕という国についてもう少しお話をしておく必要があるかも知れません。


後燕建国期​[編集]

後燕の始祖である慕容垂は前燕の皇族で、前燕の初代皇帝慕容皝の五男である。前燕が慕容垂の叔父慕容評の執政により乱れて衰退すると、東晋の桓温の攻撃を受けて連敗し、一時は皇帝慕容暐も龍城への還都を検討するまでになるが、慕容垂は燕軍を率いて東晋軍を撃破したので、一躍前燕で台頭するようになった。ところがこの功績を慕容評が嫉視して謀殺を企んだため、前秦の苻堅の下に亡命し、泉州侯に封じられ、前燕攻撃にも貢献した。383年の淝水の戦いで前秦軍が大敗すると、慕容垂は苻堅を保護して撤退した。その際、慕容垂は苻堅に河内方面の鎮撫を提言し、認められて同地に至るが、当時同地を支配していた苻堅の庶長子苻丕からは敬遠され、丁零の鎮定を命じられた。祖廟の拝謁を許されず不満を抱いた慕容垂は、苻丕の命令に従い丁零を従えて3万の兵力を擁するようになると、これを背景にして3841月に燕王を自称し、燕元という独自の年号を建てて独立し、後燕を建国した。

ただし、慕容垂本人は河北一帯を支配して勢力を確立するも、形式的にはなおも前秦の配下を称していた。臣下らがいくら進言しても皇帝に即位することは拒否しており、これは甥で元皇帝の慕容暐がまだ存命していたことと西燕との関係、また苻堅に対する恩義から遠慮していたといわれている。その後、慕容暐が38412月に殺され、3858月に苻堅が殺害されると、3861月になって慕容垂は中山で皇帝を自称した。

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全盛期​[編集]

慕容垂は苻丕(フヒ 本ブログ筆者注)と争いながら勢力を拡大し、河北一帯を支配した。また、弟の慕容徳や子の慕容麟を中枢に起用して内部を固め、3926月には翟魏を、3948月には前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げ、かつての前燕をも凌ぐ最大版図を形成した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210730 08:55


 スポット127() 崇神天皇とは誰か?として 20171001 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川氏がこう書いておられました。


 慕容廆(ボウヨンギ)=鮮卑族 と言えば、高句麗(コグリョ)広開土王を描いた「太王四神記」の後半に登場する後燕の王でしたが、その慕容廆に追われた依羅国の王子扶羅が渡海し、半島の南部に拠点を

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2007911日から125日まで韓国MBCで放送されたテレビドラマ(時代劇)


築き、倭人と更に渡海し列島の贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)=ツヌガノアラシト(敦賀=ツヌガに居た安羅伽耶からやって来たシト=人)なのです。

 恐らくこの贈)崇神辺りから近畿大和朝廷の萌芽が産まれたものと考えているのですが、まだまだ探求は続きます。

 最後になりますが、所謂、邪馬台国本をお読みになっておられる邪馬台国ファンの方々はともかくも、九州王朝論者の方で「東アジアの古代文化を考える会」の著書をお読みなっておられない方はかなりおられるものと考えています。

 レベルの高さとその厚みを考えると、単に藤原が捏造したものと理解しているものの、「記」「紀」を聖典化し同時に振り回され続けて来た九州王朝論から是非とも離脱して頂きたいと考えています。古川


ここで再び、話が前後するかも知れませんが、ひぼろぎ逍遥の古川氏に、再度、登場願いましょう。


529 臙脂色から大山祗 大市姫を考える “福岡県朝倉市大山祗神社のおしろい祭り” 20180215


皆さんは臙脂(エンジ)色と言うものを覚えておいでになるでしょうか?

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えんじ色 えんじ色(臙脂色、えんじいろ)とは濃い紅色のこと。

日本工業規格においては、JIS慣用色名の1つに「えんじ」として下のように色が定義されている。

えんじ色の由来 名前の由来は中国の紅花の一大産地である「燕支山」にちなみ、本来は紅花染めをこの名で呼んだ。

現在はカメムシ目カイガラムシ上科の一部の昆虫、特にアジア産のラックカイガラムシ、南ヨーロッパのケルメスカイガラムシ、メキシコのコチニールカイガラムシなどの体内色素を浸出させて得るコチニール色素で染めた色をさす。日本には奈良時代に「紫鉱」の名でラックカイガラムシの分泌物が渡来しており正倉院にも薬用として採集された「紫鉱」が保存されている。エンジムシとも呼ばれるこれらのカイガラムシから採集された色素は友禅紅型の染料として現在も利用される。

ウィキペディア(20180215 12:26による


えんじ色 えんじ色(臙脂色、えんじいろ)とは濃い紅色のこと。

日本工業規格においては、JIS慣用色名の1つに「えんじ」として下のように色が定義されている。

えんじ色の由来 名前の由来は中国の紅花の一大産地である「支山」にちなみ、本来は紅花染めをこの名で呼んだ。


 日本には 鴇(トキ)色、茜(アカネ)色、藤(フジ)色、山吹(ヤマブキ)色、小豆(アズキ)色、亜麻(アマ)色…と多くの色があり、日本文化の豊かさが反映されていました。

 勿論、ニューギニア高地人の様に“あの鳥の羽の色”“あの花の色”“あの木の葉の色”と言った形容詞が沢山ある(共通性普遍性がない)社会の表現と言えばそれまでですが、以下をご覧ください。

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以下省略

俗に「ワイン・レッド」と言われる「バーガンディー」(フランスブルゴーニュの英語表現)にも近い色なのでしょうが、最近、我々の内部では「臙脂色」を気にしています。

何故かと思われるでしょうが、列島文化を守ろうとか復活させようなどと思っている訳ではありません。

 百嶋神社考古学では、金官伽耶(新羅金氏)の金越智=ウマシアシカビヒコヂと天御中主命=白山姫の間に産まれたのが、姉の大市姫と弟の大山祗=月読命となるのです(最終神代系譜)。

 そして、実はこの大市姫が別名として「臙脂姫」(エンジヒメ)と呼ばれているのです。

 この大市姫=臙脂姫と金山彦(金鎖大神)の間に産まれたのが神武高兄五瀬命であり、本物の(神武僭称贈る崇神などではないという意味での)神武天皇の本当のお妃であるアイラツヒメになるのです。

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中国の紅花の一大産地である「燕支山」、正確には臙脂山と書くようですが、ここに大市姫=臙脂姫の名も端を発しているのです。ちなみに臙脂山は甘掖市山丹にあります。


色の説明 臙脂色(えんじいろ)とは、黒みをおびた深く艶やかな紅色のことです。臙脂とは古代に中国より伝わった化粧紅などの顔料の名前に由来しますが、『臙脂色 えんじいろ』として一般的に広く使われる様になったのは、化学染料が広まった明治中期頃からです。

古代の中国では、辰砂 しんしゃから作られる顔料の『朱 しゅ』にヤギの脂を加えて化粧紅を作っていたことから、「脂」の字が化粧紅を指していました。

また当時、「燕 えん」の国の紅が非常にすぐれていたため、燕産の化粧紅がブランド化し「燕脂 えんじ」と呼ばれました。それが後に『臙脂 えんじ』と呼ばれるようになったようです。

いまでいえば、海外でKOBEといえば、神戸牛を指すような感じでしょうか?

また別の説では、中国の紅花の一大産地「燕支山 えんじざん」に由来するともいわれています。

我が国では奈良時代の『正倉院文書 しょうそういんもんじょ』に『烟子 えんじ』『烟紫 えんじ』と、また平安時代の辞書『和名類聚抄 わみょうるいじゅしょう』には、『焉支』『烟支』『燕支』などと記されていますが、いずれも顔料の名前を指しており、色名ではありません。

色料の臙脂には。紅花を染料とする植物性の『正臙脂 しょうえんじ』と、臙脂虫 えんじむし(ラックカイガラ虫・紫鉱 しこう)やサボテンに寄生するコチニールの雌虫の赤い色素からとれた動物性の『生臙脂 しょうえんじ』の二種類に分けられます。ともに『深紅 しんく』のような濃い紅色ですが、『生臙脂』のほうがわずかに紫色を帯びて濃厚です。

ちなみに、臙脂虫などから採集された天然の色素は、化学染料が広まった現在でも友禅や紅型の染料として広く利用されています。またコチニールといえば食品を赤く染める天然の着色料として有名ですが、コチニールでより濃く染めた色は『洋紅色 ようこうしょく』と呼ばれます。

臙脂色は、最近では「早稲田大学」のスクールカラーとして認知度が高い伝統色名といえるでしょう。

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百嶋極秘神代系譜(部分)スサノウのお妃となる神大市(ミヅハノメ)とは別神で伯母姪の関係です


 百嶋先生は福岡県久留米市田主丸町の月読神社とか朝倉市杷木町の大山祗神社を念頭に、“列島には多くの民族が入って来ています。

呉越は元より、百済、新羅、高句麗、秦、渤海…(後に近畿大和朝廷の本拠地となった奈良にはペルシャ人も入っている…などと吹聴しているのですが)、何故かトルコ系匈奴については隠されています。

どうもこれらの人々がごっそり入っているのですが全く隠されているのです。“と…。

 言外には、それこそが熊襲であり、その中核部隊がトルコ系匈奴だったと言う意味が含まれているのです。実はその背景に朝敵熊襲については明らかにしない、隠そうとする動きが見て取れるのです。

 良く考えて下さい。月読命=大山祗についてはほとんど事績が書かれていない事にもそういう背景があったのです(要は朝敵熊襲については直接の情報を持っていないし詳述できないのです)。

 ここまで申し上げた通り、白族とトルコ系匈奴の血をひいた越智族とのハイブリッドである大山祗の姉の大市姫が臙脂姫と呼ばれている事は、彼女が臙脂の紅差(口紅)の国=「燕」からやってきたお姫様という意味が込められており、百嶋先生も朝倉市杷木町の大山祗神社で「おしろい祭り」が行われている事の背景には、「おしろい」と「紅差」=大陸から伝わった「臙脂の紅差」が反映されており、旧杷木町の教育委員会に問い合わせをしたら、“祭神の名前は聴けなかったがここの神様は女性です…と聴いています”と言われていた事が今も耳に残っています。

そうです。大市姫とはトルコ系匈奴の血をひき、甘粛省辺りを駆け巡っていたトルコ系匈奴の国からやってきたお姫様だったからこそ臙脂姫と呼ばれたのでした。

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(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、中国に周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した。 春秋十二列国の一つ、また戦国七雄の一つ。 河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。 首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。

滅亡原因: 秦により滅亡(燕攻略)

史書の記載: 1.『史記』; (巻34 燕世家); 2.『春秋左...国都: 薊; (北京市房山区)

国姓: 姫姓若しくは姞姓


そうとう長く引っ張りましたが、国東沖に浮かぶ大帯八幡社の「狐踊り」もこの大山祗系氏族との関係で考えるべきではないかと思うものです。今のところこれを繋ぐ架け橋があるかは不明です。しかし、そういった疑問、想像、思い付き…の先に真実の扉が開かれる事があるのです。猛暑の中、山の中でエアコン要らずの生活ができる有難さに探索を続けたいですね、その関係で考えれば、また、新たな展開があると思うこの頃です。

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posted by 奈東南雄 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年08月15日

017 朝倉郡に於けるトルコ系匈奴の痕跡 @ “福岡県朝倉市杷木の大山祗神社”1/2

017 朝倉郡に於けるトルコ系匈奴の痕跡 @ “福岡県朝倉市杷木の大山祗神社”1/2

20210726

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


この間、朝倉郡こそが大国主命が国譲りを強要された「出雲」であったと言う話を展開して来た事から、今後はその周辺部の話にも広げて見たいと思います。

非常に根拠の薄い話ですので、まずは、その程度の話として古代への想像を巡らして頂きたいと思うものです。

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山神様、大山祗神社は、朝倉郡でも外延部の山間部に多いのですが(勿論、平野部は圧倒的に無格社に落された60社の田神社が展開しています)、中でもこの旧杷木町の大山祗神社については百嶋由一郎氏がかなり重要なメッセジを残しておられるのです。

それは、この神社が「オシロイ祭」という、奇祭とまでは言わないものの、かなり奇妙な催しが行われていることから、その意味は不問のままにオシロイ祭だけが呼び物にされているようなのです。

さて、その意味を考えて見ましょう。勿論、筑後川を挟んだ対岸のうきは市〜久留米市田主丸辺りに掛けて、兎をシンボルにした大山祗系神社が多数展開しています。そして、百嶋先生は、大山祗命を半島の金管伽耶に居た金海金武氏であり、王昭君の流れを汲む南匈奴の一派と言われておられたのでした。

また、これが熊本城の地下にある昭君の間に対応しているとも言われておられたのです。

今回、この話には踏み込みませんが、最近、思いついたのは、もしかしたら、大分県の国東半島沖に浮かぶ姫島の狐踊りとも関係があるのではないかと思うようになったことから本稿を書いている訳です。


おしろい祭り(おしろいまつり)は、福岡県朝倉市杷木大山(旧杷木町地区)で毎年122日に開催される祭りである。

大山地区の一番奥にある大山祇神社で行われる。始まるまでに当番による膳の準備が始まると、膳には吸い物、豆、ナマスなどが盛られ、また、その横に大きな押し寿司が用意される。午後2時頃祭りが始まる。宮司のお払いがあり、祝詞が奏上されると、酒がまわり始め、氏子が少し酔ったところで、おしろいが塗られ始める。おしろいがよくつくほど、その次の年は豊作だといわれている。このおしろいは家に帰るまで落としてはならず、氏子たちは白い顔のまま家へ帰っていく。

もともと山の神は女の神で、おしろい祭りは、その山の神が「おしろいで白く化粧する」ことを意味する。

歴史は古く、1798年(寛政10年)に発刊された筑前国続風土記附録(著者:加藤一純)に、おしろい祭りのことに関して「この神事古よりの習わしなりとそ」と記してあること、1703年(元禄16年)に発刊された筑前国続風土記(著者:貝原益軒)にも大山村のことが書いてあることなどから300年以上続いている祭りだと思われる。

大山の山の神を祭り、氏子の顔におしろいを塗るおしろい祭りは、全国的にも変わった珍しい祭りで、泥うち祭り・鎮祭(チンザイ)とともに「杷木三大奇祭」と言われている。

おしろい祭り 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210727 21:07

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この記述の 山の神は女の神で、おしろい祭りは、その山の神が「おしろいで白く化粧する」ことを意味する。


については、民俗学というか神話研究と言うか、山の神よりも山姥が偉い…といった話(ヤマンバ錦や「ハイヌエレ神話」など)に引き摺られている帰来を見受けますが(「山姥研究」の第一人者であった故)大林太良教授)、百嶋先生が言われたのはそう言った意味ではなく、明らかに具体性を持った大山祗系の女神が反映されているのではないか…という側面だったのです。

結果、教育委員会からは“同社の神様は女性神です”との曖昧な答を貰い収められてはいますが、教委自体もその本質は実は全く分かっておられないのではないかと思うものです。

この問題に関しては、ひぼろぎ逍遥の古川氏が取り上げておられますので、以下、(跡宮)版から説明させて頂きます。


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朝倉市杷木町の大山祗神社とおしろい祭 


現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちが最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこの神社に関係しているのです。

(音声CDが必要な方は09062983254まで)


神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜


源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 


肥後の翁のblogから一部切出し


まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(一部には「講」を作り、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、“うさぎ”などがシンボルになっています。

一方、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。

 ここで、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいますので、若干のコメントを加えておきます。

 古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。

 百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、恐らく、、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

 つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑などと入れ替わった人々のことなのです。

 つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。

そこまで、理解して頂いたうえで、この月を愛で、うさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が今回のテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。

 あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。

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必要とされる方は直接09062983254までご連絡ください。

 以降は随時続編で書くとして、ここでは、大山祇神社をご覧いただきます。

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質素な境内ですが、この真っ赤な神殿の主は大山祗の姉で金山彦の妃となった大市姫=臙脂姫なのです


最近になってこの本殿が何故朱色(実は臙脂色)に塗られているのかがようやく分かって来ました。

それは、この神社の主が大山祗命の長女である神大市姫(大国主命の姉=弥都波能売神=罔象女神)ではなく、もう一世代上の大山祗の姉にあたる大市姫(オチノヒメ)であり、伊勢の外宮=伏見稲荷の伯母神だからなのです。従って、稲荷様は赤い鳥居を使われますので関係があるのかも知れません。

ここで、この神社の解析について、ひぼろぎ逍遥氏も「臙脂姫」関連で書かれてはいますが、茨城で百嶋研究も取り組んでおられる宮古様のお話をご紹介しておきます。

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58 龍族 櫛稲田姫と八岐大蛇


櫛稲田姫(櫛名田比売)とはどう言う女性だったのでしょうか?

八岐大蛇(古事記)【八俣遠呂智(日本書紀】の物語から始めます。櫛稲田姫は出雲と言う土地に住んでいました。

現在の島根県の出雲ではありません。出雲地名は日本国中にわりとある地名です。

物語は高天原を追放されたスサノオが出雲国に降り立った所から始まります。

高天原で大暴れをして突然出雲に降り立つと言う理由は全然書いてない唐突なストーリーです。

スサノオはそこである夫婦に出会います。

聞けば八岐大蛇と言う怪物が毎年8人の娘を差し出せと言い最後に残った末娘を食べに来ると泣いています。

スサノオは末娘との結婚を条件に八岐大蛇を退治することを請け負います。大丸1老父婦の名前 大山祇の子  足名椎命(あしなづち) 手名椎命(てなづち)

大山祇とは越智族の事です。越智族は中国のの国の王様の家系。は紀元前1100年頃-紀元前222年に渡って中国大陸に存在した強国です。

紀元前222年に終焉したのは秦の始皇帝が中国を初めて統一したからと言われています。

しかし、は宝貝(子安貝)を貨幣としていた中国、インド、ギリシャなどに宝貝を輸出していた国です。

子安貝は沖縄が一番の産地でした。


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その後に銅銭の朱露銭を鋳造し貨幣にした国なので、そう簡単に無くなるのはおかしいと考えています。

中国の新たな埋蔵物の発見を期待しています。

こちらも「大山祇の子」と簡単に書いてありますが足名椎命は燕国の日本王(九州、沖縄、台湾)です。

手名椎命は女王です。

は中央アジアのキルギスあたりにフェルガナ()、中国の、日本の九州、沖縄、越国(富山)、台湾(大苑)領地を持っていました

インドのアーンドラ国のセントバーハナ王朝の王族でしたのでインドにも精通していました。

【セント バーハナ**神の乗り物クンピーラ(ワニ)

足≒草鞋、サンダル(パドゥカ)を神の履物として崇拝していました。

それと太陽の子ミトラ神を信じていました。

足名椎命の知られている名前は、金山彦 事解男(ことさかお) 中山様 面足尊(おもたらし) 秋葉様 国狭槌(くにさづち)金刀比羅宮に御祭神としては祀られていませんが金刀比羅がクンピーラ語源である事は間違いありません。手名槌尊の知られている名前は 越智姫 臙脂姫(えんじひめ) 大市姫 埴安姫 草野姫(かやのひめ)

以上が櫛稲田姫の両親のプロフィールです。

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臙脂姫は紅花の染料を意味します。

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紅花の口紅  緑がかった黄金色。

スサノオと櫛稲田姫は綿花と染色に関係しています。

綿花はインド発祥、二人はインド(ドラヴィダ)系。

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綿の花   立葵と同じ仲間。

(葵の紋のルーツ)

全てインドから伝わった綿花栽培。葵の紋  橘紋も全てスサノオからです。

それを隠蔽して今日まで来ました。

隠蔽と八岐大蛇は深く関わっています。それが、偽ヤタガラス アジアハザール 井カスリ軍団。 大中臣、白川伯王、藤原、物部、忌部、は略奪者の名前です。


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そうなるとスサノオは記紀で言われているようなただのアンポンタンではないことが推測できますね。そうですね、スサノオも燕国に並ぶと劣らない大国の王子様です。楚の国の王子です。

楚の国もインド、中央アジア(サカ国)、日本の 熊野 、伊勢、関東甲信越、に領地を持っていました。特に諏訪と常陸が中心になっていました。楚の国と燕国が日の本を領地にしていたのですが国同士は双子国家でした。

中央集権国家ではなく共和制の国だったので小さな地域に国司がいて話し合いで物事を決めるシステムでした。ミトラ教の教えは絶対に差別をしない事です。全ての人が真の平等を享受していました。母と子を大切扱う事が全ての人間の基本です。サカ族(龍族)は【7つの龍の智慧】の継承者でした。それを御守りするのが【セントバーハナ王朝神の乗り物】金山彦の役目でした。

スサノオは金山彦の娘の櫛稲田姫と結婚する為に九州に赴いたのでした。

櫛稲田姫と八岐大蛇登場は次回で。

八岐大蛇の正体書きますね〜。



018 朝倉郡に於けるトルコ系匈奴の痕跡 A “福岡県朝倉市杷木の大山祗神社”2/2 に続く

posted by 奈東南雄 at 00:00| Comment(0) | 日記