2021年07月24日

016 西の浦は大幡「主」の浦ではないのか? A

016  西の浦は大幡「主」の浦ではないのか? A

20210620

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


E 鹿児島県姶良市蒲生町西浦

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皆さん良くご存じの桜島ですが、どう見ても東に位置する西浦です


姶良市蒲生町西浦です。蒲生は上賀茂、下賀茂の置換えですから大幡主=カミムスビ神の領域つまり大幡主の港としか言いようがありません。

ここで蛇足ながら、ついでに鹿児島の意味を考えて見ましょう。

鹿児島の地名起源については諸説ありますが、百嶋神社考古学の者が提案するのは、大幡主の船団が絶えず寄港し、水夫(カコ)が停泊するカコの島=桜島を持って鹿児島と呼ばれたのです。


F 熊本県熊本市西浦熊本市でもかなりの内陸部にあることから信用して貰えないかもしれませんが、2000年前ぐらいの熊本市を考えると、相当奥まで汐が入っていたはずです。

無題.png現在の平野の大半は加藤清正以降の干拓地であって、実際には鹿児島本線の上熊本から西里まではかなり深い入江があり、現在、崇城大学がある正面の平地は最低でも満潮時には汐の入る海だったはずです。

ここに神社庁管理に無い西浦三宝荒神があり相当に流行っています。

荒神様であることから、火の神、製鉄神を底流に持つ金山彦系の神社です。

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ここも、白族である天御中主から大幡主の一族つまり八代の妙見宮から熊本に進出したいわば女王陸地のような場所であり、有明海の大きな上げ潮に乗りギリギリまで上って来た場所のはずなのです。

そもそも、熊本とは北部九州に数多く分布する隈地名の発信源のような場所であり、加藤清正が「隈本」と言う字を嫌い「熊本」に替えたと言う話は熊本では誰でも知っている話なのです。

さて、熊本にはもう一つの西浦が在ります。有明海の西浦に対して不知火海に面した西浦も確認しておきましょう。


G 熊本県宇城市西浦

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宇土半島の南側つまり不知火海の北辺にも西浦があります。

民俗学者の故)谷川健一が「続日本の地名」に書いた永尾神社(永尾地名)の西隣の谷=湾奥に西の浦があるのです。

熊本の三宝荒神の西浦が有明海からの、当地が不知火海からの寄港地と考えれば非常に合理的ではあるのです。

この西の三角港には波多浦があるように、この一帯も大幡主系の支配海域だった事が分かるのです。


H 佐賀県武雄市西浦町


「こんな訳けのわからない所の話を持ち出してくるな!」との罵声が聞こえてきそうですが、今では自信を持って有明海最湾奥部の重要港湾だったと理解しています。

ここも東の浦が在る訳でも無く、何で西浦町があるのかが全く不明でした。

武雄温泉(旧塚崎温泉)があり、神功皇后が三韓征伐で御船山の麓に船を着けたとの伝承が残る土地ですが、現在の有明海の海岸線からすれば二十数キロも入る内陸部に何で西浦が在るんだ!と思われる方が多いだろうことは言わずもがなの話です。

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ところが、これについては反証があります。

それは、福岡県朝倉市林田の美奈宜神社の由緒です。以下をお読み下さい。

下は御船山ですがある方向から見ると二峰に見え、古代船に見えるのです。

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三韓征伐の帰路、神功皇后は有明海沿岸に凱旋し、直接的には肥前の高橋の津に上陸していると書いているのです。

実は宮司もご存じなかったのですが、これはJR佐世保線の高橋駅(武雄温泉駅の一つ東の駅)であり、肥前高橋の津とは現佐賀県武雄市朝日町の高橋これ以外にはありえません。

また、傷ついた兵員のために嬉野温泉(佐賀県嬉野市)にも寄港したという伝承も残っており、神功皇后一行が有明海側に凱旋した事は間違いないのです。

ところが、直接的には山口県下関市に該当する周防の佐波から出て何やら近畿大和の方から熊襲退治に出向いたと言う話と有明海凱旋の話が齟齬を来す事から、「神功皇后紀」からはすっかり落されているのです。

有明海は現在でも上下6メートルの潮汐幅を持つと言われますが、千数百年前を想定すれば、恐らく78メートル(平均海面からはその半分)の上げ潮に乗って相当奥まで海水が雪崩れ込んでいたはずなのです。

事実六角川水系の旧塩見川には、武雄市役所南23キロに位置する大日地区には現在も小規模な河口堰(大日堰)が置かれここまではフグやその他の海水魚が採取されているのです。

このような土地の市役所が置かれる場所にも西浦町(市役所は武雄町昭和ですが…)があるのです。

恐らく、六角川の堤防が消えれば、たちどころに海水が押し寄せるだろう事は疑い得ないのです。


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当然にも皇后の艦船が船を着けた場所は北嶽の裾野北麓の旧塚崎城城門付近だったと考えられます。

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では、何故、御船山や西浦が必要だったかをお話しし終わりとしましょう。

神功皇后は明らかに有明海沿岸で兵員を調達しています。

その事は福岡市筑前町の大巳貴神社の伝承でも明らかです。勝ち戦なら尚更の事復員は有明海側に戻すべきはずですし、宿敵新羅を撃つとして、博多に戻るとしても一旦は西に向かい五島列島の辺りから南下しなければ、対馬海流に押流され出雲、敦賀、石川へと流されかねないのです。

そして、長崎を廻り、有明海に入れば本拠地の筑後川流域に戻れたはずなのです。

林田の美奈木神社の社伝にもあるように、出師から出船は秀吉公同様名護屋(佐賀県唐津市呼子町)だったとしても、相当の人員を有明海沿岸から徴募していたはずで、その兵士の復員にも、その調達地にいち早く戻る必要があった事は明らかで、有明海側に戻っているのです。

では、その兵員輸送はどのように行われたのでしょう。

そこで、考えると唐津に注ぐ大河松浦川は、武雄市から流れ出しているのです。

現在でも、ダム、井関が無く唐津湾に注いでいるのですから、古代には三倍の川幅と安定した流量に加え、周辺の森から木を伐り出して流せば、兵員輸送と木材の輸送が一気に行えたはずなのです。

その大きな支流の一つは、武雄温泉駅の西隣の永尾駅(武雄市山内町鳥海トノミ)の駅構内を縫うように流れ、大雨の時には大量の水が唐津湾まで一気に駆け降っているのです。

この「鳥海」という地名も大幡主系の住民が定着した土地に付されるものと知っているため、やはりと思わざるを得ないのです。

武雄市の西浦町から西(佐世保方面)に34キロは小字に浦地名が拾えましたので、まだ奥まで入れるはずですが、永尾駅までは百メートルもない坂を登ればいともたやすく永尾駅に行く事ができるのです。

後は、筏で一気に唐津湾を目指して降れば、半日を待たずして大量の兵員が搬送できたはずなのです。

話が神功皇后の時代にまで一気に下りましたが、百嶋神社考古学では大国主命と神功皇后+開化天皇の時代は百年程度の差しかなく自然環境に大きな差は存在しなかったと考えています。

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松浦川について 国土交通省 九州地方整備局 武雄河川事務所

http://www.qsr.mlit.go.jp › takeo › matsuuragawa


松浦川の概要. 歴史と文化を継承し、安らぎと緑豊かな松浦川へ. 佐賀平野の水害常襲地帯である低平地を蛇行する六角川. その源を佐賀県武雄市山内町青螺山(​標高599m)に発し、鳥海川等の支川を合わせながら北流し、唐津市相知町で厳木川と、同市養母田で徳須恵川と合流。唐津市市街地で川幅を広げ、唐津湾に注ぐ。


現在も遮る河口堰などがなく、事実上のウウォーター・スライダー状の川なのです。

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右は久留米高良山に残された「高良玉垂宮神秘書」です。

仲哀死後の神功皇后と開化天皇は夫婦となっているのです。

posted by 奈東南雄 at 09:58| Comment(0) | 日記
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