2021年07月21日

015 西の浦は大幡「主」の浦ではないのか? @

015  西の浦は大幡「主」の浦ではないのか? @

20210619

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


これまで大国主の国譲り問題に関して一般的に議論されない部分を中心に書いてきましたが、ここからさらに思いっきり未知の領域に踏み入り、仮説中の仮説の領域に踏み込んで見たいと思います。

それは、九州山口を中心に何故、西浦、西ノ浦という地名がこれほど目立つのかという事実に乗り上げたままでは、先に進めず途方に暮れているのであり、未だに解決を見ていないからなのです。

無題.png

何の事だか意味が分からないと思われている方ばかりだと思うのですが、実は九州〜山口に掛けて西ノ浦という港がかなりの数で存在しているのです。

といっても地名ですから山ほどあるといったものではないのですので過度の評価が頂けるとは思っておりません。

対して、東ノ浦という地名が全く無い訳ではありませんが(大分県中津市…)、目立たないほどですので、無視されて良いレベルです。

対して北浦というのも同じく大分県の中津市に、また、宮崎県に北浦という町が昔存在していましたので(現延岡市)これについては承知していましたし、現地も踏んでいます。

こうして考えてくると、何故か「西ノ浦」だけが目立っているのです。

これがもしかしたら東西南北の西ではないのではないかという考えが湧いてきたのはここ一〜二年の事でした。つまり、西ノ浦とは「大幡主の浦」というアイデアでした。

大幡主とは博多を最大拠点として半島から大陸そしてインドシナまで交易を行なう海人族(実質的には武装商船隊)の頭目だった人なのです。

勿論、「幡」とは船の帆を意味しており、大きな帆の船を使う集団だったのです。

彼らは、渡洋航海は元より対馬海流、黒潮を利用し列島の主要部と交易を行なう集団だったのです。

これらの人々は、海人族の船が入る重要港を拠点として移動していたはずです。

その港は、後には湊(つまり秦氏の港と呼ばれたはずです)唐津市湊、宗像市神湊、山口県長門市東深川湊、兵庫県神戸市(旧湊村)兵庫県淡路市湊、境港、隠岐の島湊…後は省略します。

これらは、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛の一族(金山彦の一族)と濃厚な関係を結んだ大幡主=カミムスビ神の開拓し管理する湊だったのです。また、秦の始皇帝の姓名も贏政(エイセイ=インチョン)ですね。市杵島姫も正式には瀛津島姫なのです。

この金山彦の集団に引き続き、「秦」そのものの滅亡によって半島から秦氏も本格的に入って来たのです。

恐らく、この湊以前に開拓された大幡主の拠点港が大幡主の主に準えられ主ノ浦(ヌシノウラ)⇒西ノ浦(ニシノウラ)と呼ばれたのではないかと考えるのです。ひぼろぎ逍遥の古川清久氏は福岡県飯塚市鹿毛の厳島神社について以下の様に書かれています。


「ひぼろぎ逍遥」(跡宮) 054 秦の始皇帝と市杵島姫


奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。

秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、

 【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または無題.png秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した


と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


無題.png市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


 一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ。

転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金鑚(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方にある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃまぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイスラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというところです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレキサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金鑚(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをもらって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれたうちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さんも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というのは日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなったかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わないのですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。

ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこのイン族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉彦(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。

 ただ、氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉彦(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。


では、西浦、西ノ浦を拾い出して見ましょう。

まず、最初に上げるのは糸島半島の東に在る岬の西側にある西ノ浦です。

@ 福岡県福岡市西区西浦(左下) ここは風待ちの港 唐泊 の裏側にあるその意味では西の浦ですが、ここから半島、大陸に向かう船は、一旦下五島列島の手前、辺りまで進み、対馬海流の本流でも対馬の西を通るルートを通り半島南部に入ったのです。

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A 長崎県南島原市西有家町龍石西之浦(右上)

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ここは丘陵地に志賀神社、海岸線に金毘羅神社がありますので、大幡主のエリアそのものですね。

ここもつい最近周辺の神社を全て確認しています。


B 伊王島村 西ノ浦(現:長崎市伊王島町)

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伊王島という名で分かっていましたが、ここは伊の大神こと山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦を祀る神社=白髭神社が置かれています。お妃は豊受大神(伊勢の外宮)=伏見稲荷ですので大幡主と大きな繋がりがありますので大幡主の船団が有明海〜出船し対馬海流に乗る出船地ですので重要港湾であることは明らかなのです。


C 山口県防府市西浦

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ここも、田島山が背後に控えていますので間違いがありません。

田島とは宗像大社の辺津宮の鎮座地の大字名が田島であり、佐賀県唐津市(旧呼子町)加部島に田島神社が在る事でもお分かりになるでしょう。

そもそもこの防府市には、玉祖神社という周防一の宮でしたか、市内にも分社が数社ある大神社があり、そのくせ主神が誰なのかが分からないという信じられない話が広がっている神社があるのです。

手持ちの「山口県神社誌」を見るまでもなく、百嶋神社考古学の立場からは「玉祖」とは豊玉彦=豊国主=ヤタガラスの親神である大幡主(造化三神のカミムスビ)に決まっているのです。

何が謎だ?と言いたい所ですが、神社そのものから神社研究者、郷土史会、史談会には神社がおわかりになる方がおられないのでしょうか?豊かな経済力を持つ防府市にしては悲しい限りです。


D 大分県姫島村西浦 

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ここだけには東西南北の東以外の港名が揃っています。だから見当違いかも知れませんが。

しかし、西浦ははっきりありますね。保留しておきたいと思います。ひぼろぎ逍遥の古川清久氏は、この姫島の大帯八幡社について二十本を超えるブログを持って解析をされています。

カミムスビの神=大幡主を祀る周防は防府の玉祖神社の正面に位置する姫島だけに大幡主系の湊であろう事は疑う事が出来ません。


E 大分県佐伯市蒲江西野浦

ここは古川氏も昔から何度となく魚釣りに入っている所で、最近では年に10回も通う魚港との事ですが、ここ二年程周辺の神社を虱潰しに見て廻っておられます。

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この地区には速吸日女神社の分社があります。有名な佐賀関の神社ですが、祭神は椎根津彦命(シイネツヒコ)。そして、武位起命、稲飯命、祥持姫命、稚草根命が合祀されています。ここで、百嶋神社考古学のメンバーである「ひとつあがりのカフェテラス」氏のブログ2122号をご紹介させて頂きます。椎根津彦命について、ウイキペディアでは神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。このところ、佐賀関の椎根津彦神社詣でを繰り返しております。理由は、夏に訪れた奈良の大和神社(おお無題.pngやまとじんじゃ)で、神職の方から聞いた言葉が耳に残っていたからでした。それは、大和神社に鎮座する日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)とは「椎根津彦」のこと、というものでした。以来、佐賀関神山に鎮座する当社を幾度となく訪れ、そのことについて考えを巡らせているのでした。もちろん、社殿や境内を幾ら見渡しても、ヒントの欠片も落ちておりませんが‥。ここ椎根津彦神社は、佐賀関の半島地頸部に早吸日女神社と山一つを隔て、背中を合わせるように鎮座されています。社格は旧縣社なのですが、参拝者もあまり多くないためか、どことなくひっそりと静かに佇んでいる、といった印象です。漁港近くに車を駐め、海岸沿いの国道と平行して山際を縫うように走る細い路地をしばらく進んでいくと、民家に挟まれた、うっかりすると見過ごしてしまいそうな参道入り口に辿り着きます。少しばかり参道を登り、見上げると、これまでの神社とは少し違った感じの社殿が山を背にして鎮座されています。海上からの強い風雨に負けないよう、コンクリートで丈夫に造られた拝殿です。祭神は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)。そして、武位起命(たけいこのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)、祥持姫命(さかもつひめのみこと)、稚草根命(わかかやねのみこと)が合祀されています。椎根津彦命について、ウイキペディアでは神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。その後、神武天皇に献策し、兄磯城( えしき )を挟み撃ちにより破る。速吸門については諸説ある。『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。と記載されています。県内で椎根津彦命を祀っている社は、当社近くの早吸日女神社の境内社として鎮座している木本社(きもとしゃ,こもとしゃ)、それから由布市湯布院町の大杵社(おおごしゃ)などで、いずれも神武天皇の東征神話と由緒が関連づけられています。百嶋神社考古学では、神武天皇東征の伝承は神日本磐余彦尊ご自身ではなく、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとしています。中津市の薦神社(こもじんじゃ)に「一つ巴紋」が飾られていますが、この神紋が(贈)崇神天皇の足跡の証とされています。そして、(贈)崇神天皇と椎根津彦は兄弟であり、共に母は鴨玉依姫(神直日)とされています。さらに、百嶋系図では、鴨玉依姫は早吸日女(ブログbP8「早吸日女神社B」を参照)と同一神とのことでしたので、早吸日女神社近くに息子神である椎根津彦命が祀られていることは当然と言えば、当然なのでしょう。百嶋系図でも「倭彦」の文字が確認できますね。では、大和神社とはどういった繋がりがあるのでしょうか。椎根津彦について佐賀関町史(昭和45年発行)には、速吸の門を通過の際、天皇は国神(くにつかみ)椎根津彦(珍彦(うずひこ))に遭われこれを水先案内とされたが椎根津彦は行く先々で戦功を立て、後に倭直部(やまとのあたひら)の先祖となった。もとより『記紀』の神武伝承は神話であって、史的事実と違うが『記紀』を科学としての歴史の立場で読めばその中に建国期における佐賀関の価値も見出せると思う。 ただ速吸の門の椎根津彦のくだりが、『記紀』の夫々の記述にいささかの相違点があるので、次に原文のかきくだしをのせて対比して見よう。『古事記』の記述 「故(かれ)其の国より上り幸()でます時に、亀の甲()に乗りて釣ししつつ来る人、速吸門に遇いき。ここに喚びよせて「汝は誰ぞ」と問はしければ「僕()は国の神名は宇豆毘古(うづひこ)」とまをしき。また「汝は海道(うみつぢ)を知れりや」と問はしければ「能く知れり」まをしき。また「従(おとも)に仕へまつらむや」と問はしければ、「仕えまつらむ」とまをしき。かれすなはち槁機(さお)を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち槁根津日子(さをねつひこ)といふ名を賜ひき。こは倭の国の造(みやつこ)等が祖なり。」 ここも大幡主系の重要港湾ですね。

posted by 奈東南雄 at 00:00| Comment(0) | 日記
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