2021年07月10日

013 大国主命の生誕地から生育地を探る “福岡県春日市の伯玄社”

013 大国主命の生誕地から生育地を探る “福岡県春日市の伯玄社”

20210616

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


今回は大国主命が現出雲で生まれた人などでは全くなく九州で生まれており、当然その生育地も博多の周辺だったのではないかという提案をしてみたいと思います。まず、大国主命は元々現出雲の人などではなかったのです。神話でも大きな袋を携えて登場しますが、まあ、それが本当だったとしても、大きな袋とは九州から出雲へと移動したからこそ必要だったのであり、神話でもその旅で兎と遭遇しているのです。

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この移動とは何かと言えば、これまでお話してきた高木大神+草部吉見(海幸彦)連合に強要された国譲りの結果、現出雲に配置転換されたが故の移動だったと考えられるのです。

 では、最終神代系譜を再度ご覧ください。大国主命は、市杵島姫、豊玉姫という大幡主(実はカミムスビ)、豊玉彦(ヤタガラス)の流れを汲む宗像三女神のお二人をお妃にしています(実は大国主が瀕死の重傷を負い死んだと思われた時に看病に送られたのが二人の女神キサガイヒメウムガイヒメなのです)。

 そのような厚遇を受けたのが大国主であり、これは大山祗系と大幡主系の強力な姻戚関係(相互に互いの兄弟姉妹と政略結婚させる)によって創られた海と陸を支配する仕組みが存在していたからなのです。

 大国主命は確かに日向の大山祗の子である以上日向の人=熊襲なのですが、母神が海人族の大幡主の妹の埴安姫ですから、当然、実家の博多周辺で産まれているはずです(海人族は里に帰って出産しますね)。

ただ、かなり若い段階で博多湾周辺に移動し、大幡主の元で生活していたと思われるのです。

実はその痕跡があるのです。それは、福岡市の南の春日市の商工会の敷地に残された若き大国主命を祀るある神社がそのことを証言しているのです。

まあ、六世の孫とは他人みたいなものですが、一般的には9世紀初頭の「新選姓氏録」に「宗形(むなかた)の君、大国主命六世の孫、吾田片隅命の後なり」とあることでも一応の推測が付くはずなのです。

 ただ、それを殊更に宗像三女神の神社であるとしたのは、近畿大和政権にとって不倶戴天の敵である熊襲の頭目の大国主命を封じ込める必要性があったからに他ならないのです。

以下、ひぼろぎ逍遥の古川氏が以下で取り上げておられますので、再度、お読み頂きたいと思います。 


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)

を祀る春日市の伯玄社”


054 伯玄社


伯玄(はっけん)さん(無類の力持ち、働き者で頓知に富んだとされる人物)が伯玄の丘に働き神としてまつられ、民話として語り継がれている。


大国主命と言えば神話の世界の大スターですが、多くの皆さんは出雲辺りにいたと信じて疑いをお持ちではないことでしょう。

しかし、百嶋神社考古学では全く異なります。

大国主の先祖は半島、古くは大陸からの渡来神であり、恐らく出雲神話の舞台も半分以上は北部九州とされていたようです。

今回ご紹介するのは、最低でも幼少期は福岡県春日市にいたとする、ほぼ、物証に近いものかも知れません。


伯玄社 福岡県春日市伯玄町2丁目24 春日市商工会敷地内  092-581-1407カーナビ検索

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通常、大己貴神(オオナムチ)は大国主命の別名として扱われます。

また、「古事記」では「大国主の子供の頃の名前」とします。

百嶋先生は地元の神社でもあることから、くまなくフィールド・ワークを行っておられていたようです。

相当、深いところまで調べておられたはずで、草ケ江神代史研究会に密かに伝承されてきた情報と重ね合わせ、この伯玄社に祀られた神はオオナムチになる前の幼名であることをご存じだったのです。

さらに、狗奴国の乱の中心人物である大山祇神(=月読命)の子が大国主命=オオナムチであり、狗奴国の乱の政治的責任の一端をこのオオナムチも負っていたと言われています。

ここまでくるとかなり高度な話であり、記紀神話を金科玉条とする方々からは何を馬鹿な!と言われることは重々承知していますが、百嶋説の継承者としてはそうとしか言えないのです。

まず、大国主命はスサノウの子であるとか、六世、七世の孫だとかされています。

百嶋神代系譜を見ると、大山祇神と草野姫との間に生れた神大市姫の弟、木花咲姫の兄になります。

この大国主命の母親草野姫(埴安姫)は同時にイスラエル系の金山彦(金鑚大神)の妃として櫛稲田姫を生んでいるため、スサノウにとってこの埴安姫は母親になる訳で、結果として、大国主命はタネ違いながらスサノウの義理の息子と言えないこともないのです。

この点、子とする「日本書紀」は「古事記」よりは正しそうに見えますが、まだ、全く暗中模索が続きます。

この伯玄社は古墳時代に先行する弥生の遺跡(伯玄社)の上に置かれています。

柳葉型磨製石鏃、支石墓、甕棺、土壙墓、貝輪など、雑餉隈遺跡などと同じ系統だと思いますが、朝鮮半島との関係が考えられます。

大国主命は「古事記」がスサノウの6代の子としたことから、神社研究者の間では出雲系とか新羅系と考えられています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


まず、百嶋由一郎が残した最終神代系譜を掲示していますので、これから考えて見ましょう。

大国主命は、姉がミヅハノメ、妹がコノハナノサクヤヒメという大山祗(トルコ系匈奴と白族の子)の子であり、母がこれまた白族の埴安姫ですので、一体化が進むカミムスビこと大幡主、大山祗連合への入り婿でもあり後継者でもあった事になります(白族について関心をお持ちの方はネット検索を行ってください)。

 一方、マサカツアカツこと天忍穂耳命=草部吉見神は北部九州の先住者であった高木大神の次女タクハタチヂヒメ=栲幡千千姫萬幡姫を妃としている事から、阿蘇高森の草部吉見一派は高木大神系=タカミムスビ系になる訳です。

 まあ、天照大御神も呉の太伯の流れを汲む列島大率姫氏と高木大神の淑叔母を母神としている事から一応は高木大神系と言えるのです。

 天忍穂耳命=草部吉見神が天照の子だとか弟だとか言った話は与太話としても、高木大神+天照+草部吉見という葦原中つ国+北の筑豊を大国主命の臣下である建御名方からこれまた強奪し(田川郡を中心に諏訪神社が一社を除き消えている)、彦山の南北を安定化させたという事からは、それに限って三悪人の名が適当かと思うのです。つまり、タカミムスビVSカミムスビの代理戦争と言えそうなのです。

では話を替えます。

付近には有名な須久岡本遺跡もありますが、様式の違いから、まずは、征服者、被征服者の関係が考えられそうです。

百嶋神代系譜によって民族の衝突、征服、被征服、融合が認められるのですが、考古学的推定と神社からの神代研究が結びつけば面白いですね。直ぐに結論に飛びつくのはまだまだ危険でしょう。

ともあれ、大国主の幼名=オオナビコを祀る神社が残されている事は奇跡に近く、有難いと思うばかりです。多分、その事を知る人々(恐らく伯玄町の方々なのでしょうが)のご尽力には敬服するばかりです。

オオナビコがオオナムチよりも若い時代の名前であるとして、他に同名の神社が一切ない以上、少なくとも、白族出身の母を持ち、トルコ系の父を持つ若きプリンスがここにいたとすれば、オオナムチの出身地は春日丘陵一帯だったとまでは言えそうです。朝鮮半島からの渡来人と衝突する場所は北部九州です。

以前から主張しているように、大国主命が譲った国は九州であり、出雲神話の舞台はやはり九州なのです。「牛島稔太のHP」のマネージャーである牛島氏が、「神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 --- で百嶋講演を文字化しておられますので、以下、伯玄社について話されたことをご紹介します。


 ひぼろぎ逍遥

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若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る

“春日市の白玄社”への再訪!


260 若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る“春日市の白玄社”への再訪!


詳しくは、前掲のブログを読んでもらうとして、今回は、神仏混淆化された参拝殿(お堂)の裏に石造りの神殿の神額を見て頂きたいのです。

実は、前回訪問した時は、文字が書かれているとは考えていなかったのですが、今回、訪問すると、ちゃんと書かれている事に気付いたため、改めてお知らせする事にしたものです。

通常は、ボロタオルを用意して水に濡らして表面を拭けばだいたい文字が浮かび上がるのでどなたも試してみて頂きたいと思います。

デジタル・カメラで撮影した画像を、コントラスト、明るさをパソコンで調整しても文字が浮かび上がる事があるのですが、まずは、このような簡単な方法でもなんとかなるものなのです。

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白玄社(上)神殿           神額(下)


「大巳彦神」と彫り込まれていることはお分かりになるでしょう


これを読まれれば、少彦名命が春日市の須久岡本遺跡のある須久に住んでいた須久の彦だったことがお分かり頂けるのではないでしょうか?「スクナ」は「スクノ」の古形であり、今でも「そこな御人」「そこな女子」といった言葉が落語などに留められている事が思い浮かばれます。所有の格助詞の「な」がスクナヒコナ命の意味つまり、スクの彦の命がその意味だったのです。

すると、春日市商工会議所敷地内に残された伯玄社にオオナビコとスクナヒコナノミコトとは幼馴染であった事までが見えてくるのであり、神話の世界が現実の歴史の世界に引き下ろされて来るのです。

最後に、大国主の国譲りの結果、最終的に大国主もしくは、その配下の大国主の一党が移動していった

旧出雲の一つが現出雲であり、移動先(移転先)が現出雲だったことが見えてくるのです。

従って、現出雲とは近畿大和朝廷が創ったものであり、因幡の白兎神話の舞台とか大国主が大怪我をしてウムギヒメ、キサガイヒメが介護に送り込まれた現場といいテーマ・パークでしかないのです。

このことは、九州の大国主祭祀圏の再検討再調査が極めて重要であることを示しているのです。


須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)は、福岡県春日市岡本にある遺跡群。

福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置する、周辺の南北2キロメートル、東西 1キロメートルの範囲の弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡等)を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。1986年(昭和61年)624日、国の史跡に指定された。

この遺跡の中の巨石下甕棺墓(古名称は須玖岡本遺跡)は明治期に発見されたもので、その後遺物は散逸していて、正確な数値は不明である。


若き大国主命は福岡県春日市周辺にいた。では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについても、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いておられますのでお読み頂きたいと思います。

無題.png面白いのは、この直ぐ近くに有名な須久岡本遺跡があることです。

故)百嶋先生は“少彦名命をスクナヒコナと読むから分からない、スクの彦の命と読めば良く分かる”と言われていました。「そこなオナゴ名は何と申す…」のそこなの「な」はそこのオナゴという時の所有の意味を持たせる格助詞のノ=ナであることは明らかで、須久に住んでいる彦であって、若き大巳彦=大国主命と少彦名命とが幼馴染だった事がただちに浮かんでくるのです。


須玖岡本遺跡は、福岡県春日市岡本にある遺跡群。 福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置する、周辺の南北2キロメートル、東西 1キロメートルの範囲の弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。

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posted by 奈東南雄 at 08:35| Comment(0) | 日記
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