2021年06月24日

012 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “筑前町弥永の日隅宮”

012 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “筑前町弥永の日隅宮”

20210521

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


 では、今回の出雲の国譲りに関する一連の話の証拠と言うほどのものではありませんが、決め手に近いものをお示ししてこのシリーズの論証部分を一旦は締めたいと思います。

 詳細については太宰府地名研究会の宮原誠一氏(「宮原誠一の神社見聞諜」)、古川清久氏(ひぼろぎ逍遥外2本)、「事代主のブログ」○○氏…などのブログをお読み頂ければより鮮明になるでしょう。

 尚、百嶋神社考古学研究会という呼称は今後の展開に備え準備したもので、全員のコンセンサスを得たものではありません。ただ、下手な古代史(邪馬台国畿内説、東遷説などは問題にもなりませんが、仮に九州王朝論に立つものであったとしても、この立脚点を持たない限り何の将来も存在しないと考えている事によります)、現在の研究者も後20年もすればいずれ活動できなくなるでしょう。これに対しては新たな若手の研究者の養成をしなければならず、その受け皿を造るためと考えている訳です。

元々、「地名研究会」という素人まがいの呼称はダミーでしかなく、ただただ、量的に拡大させるためのマヌーバでした。真面目な探求者、研究者、記録者…に集まって頂くには新たな箱が必要なのです。

 では、本題に入ります。筑前町弥永の大巳貴神社から数百メートル降り、右手の住宅地がある裏手から広がる山裾の小丘に天神社とも田神社とも呼ばれる小さな社がありますが、この境内の一角に日隅宮なる石の祠が置かれているのです。

 そして、この地、大字弥永には日隅宮(ウヅノミヤ)があり、その祠もその小字に置かれていたのです。記録によれば、字ウヅノミヤから後に字古寺に移され、この田神社に合祀されていたというのです。

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まず、上の写真を見ると、小石原川の傍に安川郵便局があるように、現小石原川こそ天の安川だったようにも見えます。小石原川と呼ばれたのは旧小石原村が高木大神の本拠地である彦山の西の拠点であり、その後安川という呼称は消されたように思えます。近畿大和朝廷成立後は九州に三輪山や安川があっては彼らは困るからです。

また、大巳貴神社は後からできた岬状地に造られているように見えます。これはその後の再建地ですね。では、元はどこにあったのでしょう。やはり日隅宮(ヒスミノミヤ)ではなくウヅノミヤなのです。

一つの可能性でしかないのですが、結局、それは、日隅宮(田神社)に移動してくる以前の日隅宮が鎮座していた字ウヅノミヤと言う事になるのではないでしょうか(ここで持て囃された出雲大社の芯柱が宇豆柱=ウヅバシラと呼ばれていた事を思いだして下さい)。

さて、この筑前町一帯は戦後の国土調査が始められた時期が最も早かった地区だったようです。

その調査の結果「日隅宮」という小字名は消されているのですが、非常に幸いなことに明治15年に全国の小字を回収した所謂「全国小字調査」には記録が残されていたのです。これついては後述するとして、まずは、田神社をご覧頂きます。

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今さらながら私達が気付くまで良くぞ残っていてくれた。との思いを禁じえません。

確かに地元の郷土史会は、記録を残してくれています。しかし、その会もいつしか消失し、さらに合併によって筑前町となった後は現実にこの記録の重要性に気付き、保存に尽力すると言う意識を持った方々は既に存在していないのです。

学会通説の型通りの解析ではこんなところに「出雲神話」に関わる「日隅宮」などあるはずがないと謂わんばかりなのです。

このように金槌で頭を打たれると仮に貴重な文化財と言う認識を持った人が居たとしても、どうにでもなれとなってしまうのが当然で、この「日隅宮」に対して申し訳程度の記述を残し、新しい掲示板が造られてはいるもののその内容はかなり薄められている事はあきらかです。ただ、幸いなことにそれ以前の掲示板について当会の中島氏が写真を残していた事からその重要性を認識できたのであって、現在のそれでは見過ごしてしまうに決まっているのです。その掲示板とそれ以前の掲示板を読み比べられれば現教委がどのような考えをお持ちかは言わずもがなでしょう。本ブログとそれに連動するユーチューブに於いては視聴者聴取者のご判断にお任せしたいと思います。

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筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)


「古事記」や「出雲神話」を持ち上げ、通説にどれだけ通じているかを競うような権威主義的な方から、通説から離脱したものの学会通説に尾を振るようなさもしい人々まで出てくる世間ですが(村興し町興し世界遺産登録…)、百嶋神社考古学の者の目から見れば、殆ど漫画の世界でしかなく、現場を知らず、見ようともせず「記」「紀」を丸呑みする方々は今も、尚、後を絶ちません。その現場さえも自己保身のために無かった事にする旧石器ねつ造事件の藤村新一(本当は彼を利用した連中が外にもいるのです)の様な人々も後を絶たないのですから(ニシダニも)、貴重この上ない資料を何故保存しようとされないのでしょうか?ともあれ、これが記録として残されただけでも幸運だったように思えます。

要は「日隅宮」は国譲りの代償として高木大神が建ててやる(建てさせる)とした神殿の名称なのです。

では、「出雲国風土記」も見ておきましょう。引用は、「出雲の八咫烏 出雲神話 古代出雲族」です。


無題.png天日隅宮  杵築の大社 「出雲大社」

「神魂命(かみむすひのみこと)詔りたまひしく、「五十足(いた)る天日栖宮(あめのひすみのみや)の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の栲紲(たくなは)持ちて、百八十(ももやそ)結びに結び下(た)れて、此の天(あめ)の御量(みはかり)持ちて、天下(あめのした)造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ」と詔りたまいて…。」

記紀によれば、国譲りにより葦原中つ国を天孫に奉還した大国主命が、退いて幽冥(かくりよ)主宰の神となるにあたり、大神の住まう宮殿を造るよう求め、天照大神が諸々の神に命じ造営させたとありますが、「出雲国風土記」によれば、八束水臣津野命の国引き事業の後に神魂命(かみむすひのみこと)の命により、天御鳥命(あめのみとりのみこと)が造営したとあります。


八束水臣津野命とは大国主命その人ですが、八束水臣津野命 も国譲りを強要した草部吉見こと武甕槌=海幸彦が業績を奪っているようにも見えます。神魂命(出雲現地ではカモスの神と呼んでますよね、カミムスビをカモスと呼んでいるのです)は、神産巣日神(カミムスビ)そのものの大幡主の事です。

天御鳥命 はその子ヤタガラス=豊玉彦であり、実際には大分県日田市を基盤にしていた(だから豊玉彦なのですが)ヤタガラスが神殿を建て替えてやった事になるのです。

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百嶋由一郎 009八束水臣津野命 神代系譜


長浜神社は出雲大社以上に重要な神社です。是非ご参拝を…。この長浜は、博多港正面の「長浜」その地名移動で、古くは非常に長い砂浜が存在していたのです。この置換えが出雲の長浜神社になるのです。

博多と出雲は一衣帯水であると前述しましたが、博多を最重要拠点とした海人族の古くからの植民国家が出雲だったのです。

年齢が18581862(便宜的に西暦2000年を基準に表した積年)と明らかに異なるため、大国主と海幸彦が同一人物だったという意味ではなく、業績を奪い消し去る事例を表示されているようです。


無題.png  日本書記と出雲 佐藤雄一より転載

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通称「明治15年全国小字調べ」

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posted by 奈東南雄 at 03:11| Comment(0) | 日記
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