2021年06月15日

011 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “旧夜須町の大巳貴神社”

011 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “旧夜須町の大巳貴神社”

20210518

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄

 この話について百嶋先生は一言も断定も明言もされていませんでしたが、これまでの条件から言えばこの地以外にはありえないと考えたことから当グループ内ではコンセンサスが進んでいるところです。

 ただ、一般的にはどうかと言えば、このような突飛な話を持ち出すのは全国でも我々だけであって、“これまでの郷土史家と言われる方々は一体何をやっていたのだろうか?”と不思議に思うばかりです。

 恐らく通説派の学者などから吹き込まれ彼らの下請け的に視野の狭い活動を強いられてきたからだろうとは思うのですが、何時の時代もエピゴーネンどもは蔓延り続ける物だと思うばかりです。

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福岡県は筑後川北岸の沃地(筑前地方)=葦原中ツ国を


非難を受けることは重々覚悟していますが、今では全体的背景、個別的資料、物証と言える現存物…と客観的な条件が浮き上がってきているのです。

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考えれば「出雲の国譲り」とは非常に奇妙な話です。天の岩戸隠れの時もでしたが、出雲の国譲りの時にも天安河に神集(カミツドイ)いし対応策を談合しています。

部分的ですが、「日本書紀」でも高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)が国譲りを大国主(オオクニヌシ)に迫る時に「天安河に打ち橋をかける」と約束しています。

この神々の談合に於いて天照大御神は葦原中つ国は日嗣の御子が治めるべき土地であるとして国譲りを強硬に主張します。

勿論、その背後にいて画策したのは明らかに高皇産靈尊=高木大神だったと考えられます。

 この安河ですが、筑前町ではなく現朝倉市西部の領域に下渕(旧安川村)、 甘水(旧安川村)、 隈江(旧安川村)、 持丸(旧安川村)、 千手(旧安川村)、 長谷山(旧安川村)、 楢原(旧安川村)があり、現在の彦山西麓の旧小石原村(現東峰村)から流れ出す小石原川流域こそが旧安川だった事を思わせるのです。

 朝倉市、朝倉郡は、古代より筑前国15郡の「夜須」「上座」「下座」3郡をなし、「和名抄」でも下座を下都安佐久良(シモツアサクラ)、「延喜式」も上座を上都安佐久良と記している。

 一方、現筑前町は旧夜須町+旧三輪町(夜須郡 古代安郡)によるもので、「安」は直接天の安川に通じると考えるべきなのです。三輪山も神功皇后の目配山と変えられていますが、三輪山も本来ここなのです。

 その背後には、彦山を本拠地とする高木大神(高皇産靈尊)、武甕槌(草部吉見=ヒコヤイミミ高木の次女を妃とする)、天照大御神(高木大神の叔母と列島大率姫氏の娘)という強固な勢力が存在していたのです。さて、外部の方はご存じないでしょうが、この地(筑前町弥永)には何故か堂々たる県社オオナムチ神社があります。

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オオナムチ神社も昔は「大国主神社」の看板を大っぴらに出していたのですが、最近、何故か表に出してはおられません。

 それはともかく、この地に何故出雲の神様がおられるのかについては、地元郷土史家は元より、九州王朝論者に於いても全く見当が着かないようで、神社の側でもオオナムチ神社と名乗っているにも拘らず大国主命を表看板では引っ込めておられるようです。替わって神功皇后の兵を集める話を前面に押し出しておられる事からは、既にこの大国主祭祀には神社自らが不思議に思っておられるふしがあるのです。

 勿論、私達もそう思っていた訳です。

 ところが、九州全域の大国主命祭祀を拾い出す中で、これまで十数社を越える祭祀を見出したとして手ごたえを感じていたのでしたが、新たに長崎県だけで主神として大国主命を祀る神社が90社もある事を発見するにつけ、この神社はもしかしたら本物ではないかと思うに至ったのでした。

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「福岡県神社誌」を全文掲載していますのでお読み頂くとして、依然、これだけでは核心は拾えません。 祭神は天照大御神、大巳貴命、春日大神としています。これをそのまま真に受ける危険性はあるのですが、いずれにせよ国譲りの結果、大幡主系、無題.png大国主系を排除したのですから、彦山の高木大神系、草部吉見系の祭神に替えられていると見るべきでしょう。 

 右は、参拝殿上部の壁面にある大国主命暗示するモチーフで通常「波乗り兎」と呼ばれます。

 神殿ではなく参拝殿の右手に鮮やかに残されています。当然、因幡の白兎の故事に因む物です。

まず、境内最初の鳥居の先の参道左に大行事と書かれた石塔があるように、この神社も高木大神系に制圧されていた事は明らかで、当然にも境内社として八幡宮、八幡神社が3社もあるのも頷けるところです。 た無題.pngだ、神殿背後にある祠だけは大幡主=カミムスビを祀る正八幡神社であろう(あった)と考えています。

 祭神の天照は高木大神の親族ですから当然として、ここでの春日大神も藤原の軍神=奈良の春日大社とならざるを得ないのですが、もしかしたら藤原の祖である草部吉見の後の妃である辛国息長大姫大目命の母君=ミヅハノメ(大国主命の姉)なのかも知れません。

 今や、参拝殿左手にオチャラケた大国主像が置かれているだけで、全くのお伽話に仕立てられているのです。

オオナムチ神社の名も何れ消される運命なのかも知れません。

 しかし、この地にはしばらく前まで三輪町がありました。

また、神功皇后伝承から消された様ですが、目配山とされた三輪山があったのです。実に興味深い謎のエリアなのです。ではここからさらに話を動かします。

出雲神話の中でも国譲りの話はその根幹を成しています。それは、葦原中津国の平定こそが天津神々(所謂天孫族:高御産巣日神=タカミムスビ、高木大神の息子ニニギ、後の天照大御神=オオヒルメムチ)にとって極めて重要な事だったからだと考えられるからです。

ところが、そこがどこであるかが判然としないのです。

単純に言えば葦原中津国とされる出雲の支配権を奪われた大国主は何故出雲にいるのでしょう?

これは後の藤原が造ったテーマ・パークとしての出雲王国だからであって、簡単に言えば九州の沃地である葦原中つ国を奪われ、追われ移動した先が現出雲だったと考えるべきなのです。

「古事記」の出雲の国譲り神話を単純化すれば、天つ国である山上の国の高天原から地上の国とする葦原中つ国の支配権を大国主命から受け継ぐという神話です。「記」、「紀」でこの神話がもたらす理解は大きく、天皇家による列島支配権の正当性を詠っているのです。

結局、この神話がなければ、天孫降臨神話は只の侵略にしかならず、神武東征に始まる近畿天皇家支配の正当性は説得力に消失する事になりかねないのです。

「古事記」によれば、高天原からアメノホヒ(豊玉彦=ヤタガラス=カミムスビの子)が使者として派遣されますが、彼はオオクニヌシに取り込まれて3年経っても復命しないのです。

次にアメノワカヒコが弓と矢を貰い国譲りを要求しますが、これも8年経っても復命しないのです。

その後も工作は続きますが、タケミカヅチとアメノトリフネが派遣され、タケミカヅチは十拳剣を波頭にさかさまに立て、その剣先にどっかとあぐらをかいてオオクニヌシに国譲りを迫るのです。

そこでオオクニヌシは「年老いた自分では決められない」と、わが子であるコトシロヌシに判断を委ねます。コトシロヌシが国譲りに同意すると、「もう一人の子どもであるタケミナカタにも聞いてほしい」と、言いました。タケミナカタはすぐには賛成せず、「力比べで勝負してきめよう」と、タケミカヅチに挑みますが、敗れて逃げ出し、信濃の諏訪湖で追い詰められてこの国から出ないことにより許されるのです。

二人の子どもが同意した事により、オオクニヌシも国譲りを受け入れ、「その代わり、立派な宮殿と同じくらい立派なものにしてくれ」と言ったとされているのです。

好い加減な記憶で、記紀を混同させながら、非常に簡略化した話にしましたが、詳細は原典を読まれるなりネット上にも多くの研究資料が落ちていますのでそちらをお読み下さい。

 そこで次回取り上げようと思っているのがほんの50年ほど前まで実在していた(実は今も現存していたのです)代替えの神殿としての「日隅宮」(現地ではウヅノミヤ)に関わる話です。

 この話に入り込む前に、この大巳貴神社の周辺と併せて考えて頂くことにします。


葦原中つ国を威圧する彦山の高御産巣日神系天孫族

無題.png大分県日田市はその中心部の田島(宗像大社辺津宮と同一)に大原八幡宮が鎮座し、繁華街に玉川町があるように、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの子であるヤタガラス=豊玉彦の支配領域であることは間違いないでしょう。

 対して、甘木、朝倉、把木という現朝倉市が本来は大幡主=カミムスビの支配領域であり、それを継承した大国主命の支配領域であった事は田神社の論証に依りある程度ご理解頂いたと考えています。

 しかし、その沃土を脅かす勢力が勢力を拡大させていたのです。

 それが、北の山岳地帯を基盤とした彦山山岳修験の武装パルチザン勢力であり、その背後にいるのが高木大神ことタカミムスビだったのです。この勢力は筑前町から日田市までの直線で2030キロの場所にあり、半日を待たずして平地に駆け降り地域を一気に制圧できるだけの力を持っていたのでした。そして、それが彦山山岳修験だったのです。この事を象徴するかのように今も大巳貴神社の鳥居の傍に大行事社の石碑が残されています。

かつて、この地も高木大神系の制圧下にあった事を象徴しているのです。

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無題.png彼らは彦山の周りに事実上の行政機関としての48大行事社を置き下界を圧していたのでした。

 ここで、敬愛するブログ「正見行脚」氏から大行事社(高木神社)を細切れながら引用させて頂きます。


佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)


英彦山(田川郡添田町)は、天照大神の御子天忍骨尊(天忍穂耳尊)が天下った霊山故に、当初は「日子の山」といわれ、天忍骨尊が英彦山神宮(英彦山頂上宮)に祀られているが、本来、英彦山頂に祀られていたのは山頂直下にある「産霊(むすび)神社」の祭神高皇産霊神だったのではないかとの説がある。
 それ故に高皇産霊神を祀る高木神社(旧大行事社)が英彦山神領を守るように英彦山を取り巻いて鎮座しているのだろう。
()英彦山は、もとは彦山だったが、1729年(享保14年)の霊元法皇院宣で「英彦山」の表記となった。 
()彦山神領「大行事社」は、明治維新後、「高木神社」に改称、高貴な祭神高皇産霊(たかみむすび)を祀る神社ということから「高木神社」としたのだろう。
 「佐田高木神社」境内に立つ「神社を後にして御幣を手にして金剛杖をつき笈を背負って行脚する山伏のイラスト(画像3)を載せた陶器「案内板」には次のように記されている。
 無題.png「大行事社ともいう。黒川宮園にある高木神社同様、彦山の方七里(約二八キロ四方)の神領内におかれた鎮守社の一つ。彦山の山麓にはこうした社があわせて四十八あり、彦山を取り囲むように配置されていたといわれている。
 また、この地は彦山詣の道筋であり、信仰心のあつい人々が佐田仏谷通堂(とおりどう)をぬけ、この社を後に彦山へ向かった往時の情景がいまもしのばれる。現在、祭礼は毎年十月二十三日に行われている。」
 因みに、山伏の彦山修験では彦山霊仙寺末社ともいう英彦山神領四十八大行事社(末社高木神社)のすべてが現存しているものかどうかは分からないが、高木神社でヒットした次の30社の鎮座地を参考までに下記しておく。
 ただし、この30社のなかには合併などでなくなっている神社もあるのではないかとも思うが、すべての所在の確認をしている分けではないので、現時点で現存有無の区別はできない。


当方も48大行事社については1020社は廻っていますが、徐々に神社を維持する意味も習慣も薄れつつあるのですが、大行事という地名も含め尚もかなりの数の神社が今も多数の存在しているのです。

 無題.pngいずれにせよ神集いし葦原中つ国の国譲りの談合を行った天の安川=安川(朝倉市甘木〜旧夜須町)があり、筑前町弥永に大巳貴神社が現存し、大幡主こと神産巣日神の支配領域を表現する60もの田神社があり、彦山には高御産巣日神を筆頭に、その次女栲幡千千を妃とした天之忍穂耳命=正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊=草部吉見=ヒコヤイミミ(実は国譲りを強要した武甕槌)が祀られ、この一帯に全ての役者がそろっているのです。ここで百嶋神社考古学の立場からさらに踏み込み、 

高御産巣日神、天照大御神、高木大神、天之忍穂耳命の関係を確認し、何故、国譲りを強要したかをお話しし終わりとさせて頂きます。右は彦山上宮⇒
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百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


百嶋由一郎最終神代系譜によって考えるとより鮮明になりますが、結局は天孫族=赤組(タカミムスビ系)VS国つ神=青組(カミムスビ系)+天御中主系の暗闘であり、彦山を拠点としていた高木大神がその周囲、特に南北の沃土を制圧し、国譲りを強要したのが出雲の国譲りの正体だったのです。

「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ)が治めるべき国である」とした。天照大御神を赤組に加えていますが、この女神は周王朝の末裔である列島大率姫氏と高木大神の叔母との間に生れた神武と腹違いの姉だったのです。

これについては、古川氏が書かれている ひぼろぎ逍遥(跡宮)737佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る などをお読み下さい。

とすると、天照は高木大神系の人物であり、大国主に国譲りを強要する高木大神グループであることが分かるのです。

彦山の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が赤組の実力部隊なのですが、彼こそ阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミであり、藤原氏の先祖なのです。

彼は高木大神の次女栲幡千千を妃としていることはその時点では入婿に近く、その範囲で高木大神系であると言えるのです。

一方、青組の大国主命は大山祗の息子なのですが、大幡主系の宗像三女神の市杵島姫と豊玉姫をお妃としているのです。

大山祗は有名なニニギとコノハナノサクヤの出会いから、南九州の人であることはほぼコンセンサスを得ているのですから、その息子が本来は南九州を地盤にしていた可能性は高いのです。

決して出雲で産まれた出雲出身者などとは考えるべきではないのです。

ここまで考えてくると、朝倉市の北、飯塚市桂川に、何故、出雲交差点が存在するのかも見えてくるのではないでしょうか?朝倉市一帯こそ国譲りの現場だったのです。

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010 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “福岡県朝倉市の田神社”でとりあげた田神社の現地調査で廻っていると、同じ弥永の田神社に驚くべき解説文を発見したのです。次回、続く012でこの話に入ります。

posted by 奈東南雄 at 00:00| Comment(0) | 日記
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