2021年06月24日

012 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “筑前町弥永の日隅宮”

012 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “筑前町弥永の日隅宮”

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百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


 では、今回の出雲の国譲りに関する一連の話の証拠と言うほどのものではありませんが、決め手に近いものをお示ししてこのシリーズの論証部分を一旦は締めたいと思います。

 詳細については太宰府地名研究会の宮原誠一氏(「宮原誠一の神社見聞諜」)、古川清久氏(ひぼろぎ逍遥外2本)、「事代主のブログ」○○氏…などのブログをお読み頂ければより鮮明になるでしょう。

 尚、百嶋神社考古学研究会という呼称は今後の展開に備え準備したもので、全員のコンセンサスを得たものではありません。ただ、下手な古代史(邪馬台国畿内説、東遷説などは問題にもなりませんが、仮に九州王朝論に立つものであったとしても、この立脚点を持たない限り何の将来も存在しないと考えている事によります)、現在の研究者も後20年もすればいずれ活動できなくなるでしょう。これに対しては新たな若手の研究者の養成をしなければならず、その受け皿を造るためと考えている訳です。

元々、「地名研究会」という素人まがいの呼称はダミーでしかなく、ただただ、量的に拡大させるためのマヌーバでした。真面目な探求者、研究者、記録者…に集まって頂くには新たな箱が必要なのです。

 では、本題に入ります。筑前町弥永の大巳貴神社から数百メートル降り、右手の住宅地がある裏手から広がる山裾の小丘に天神社とも田神社とも呼ばれる小さな社がありますが、この境内の一角に日隅宮なる石の祠が置かれているのです。

 そして、この地、大字弥永には日隅宮(ウヅノミヤ)があり、その祠もその小字に置かれていたのです。記録によれば、字ウヅノミヤから後に字古寺に移され、この田神社に合祀されていたというのです。

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まず、上の写真を見ると、小石原川の傍に安川郵便局があるように、現小石原川こそ天の安川だったようにも見えます。小石原川と呼ばれたのは旧小石原村が高木大神の本拠地である彦山の西の拠点であり、その後安川という呼称は消されたように思えます。近畿大和朝廷成立後は九州に三輪山や安川があっては彼らは困るからです。

また、大巳貴神社は後からできた岬状地に造られているように見えます。これはその後の再建地ですね。では、元はどこにあったのでしょう。やはり日隅宮(ヒスミノミヤ)ではなくウヅノミヤなのです。

一つの可能性でしかないのですが、結局、それは、日隅宮(田神社)に移動してくる以前の日隅宮が鎮座していた字ウヅノミヤと言う事になるのではないでしょうか(ここで持て囃された出雲大社の芯柱が宇豆柱=ウヅバシラと呼ばれていた事を思いだして下さい)。

さて、この筑前町一帯は戦後の国土調査が始められた時期が最も早かった地区だったようです。

その調査の結果「日隅宮」という小字名は消されているのですが、非常に幸いなことに明治15年に全国の小字を回収した所謂「全国小字調査」には記録が残されていたのです。これついては後述するとして、まずは、田神社をご覧頂きます。

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今さらながら私達が気付くまで良くぞ残っていてくれた。との思いを禁じえません。

確かに地元の郷土史会は、記録を残してくれています。しかし、その会もいつしか消失し、さらに合併によって筑前町となった後は現実にこの記録の重要性に気付き、保存に尽力すると言う意識を持った方々は既に存在していないのです。

学会通説の型通りの解析ではこんなところに「出雲神話」に関わる「日隅宮」などあるはずがないと謂わんばかりなのです。

このように金槌で頭を打たれると仮に貴重な文化財と言う認識を持った人が居たとしても、どうにでもなれとなってしまうのが当然で、この「日隅宮」に対して申し訳程度の記述を残し、新しい掲示板が造られてはいるもののその内容はかなり薄められている事はあきらかです。ただ、幸いなことにそれ以前の掲示板について当会の中島氏が写真を残していた事からその重要性を認識できたのであって、現在のそれでは見過ごしてしまうに決まっているのです。その掲示板とそれ以前の掲示板を読み比べられれば現教委がどのような考えをお持ちかは言わずもがなでしょう。本ブログとそれに連動するユーチューブに於いては視聴者聴取者のご判断にお任せしたいと思います。

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筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)


「古事記」や「出雲神話」を持ち上げ、通説にどれだけ通じているかを競うような権威主義的な方から、通説から離脱したものの学会通説に尾を振るようなさもしい人々まで出てくる世間ですが(村興し町興し世界遺産登録…)、百嶋神社考古学の者の目から見れば、殆ど漫画の世界でしかなく、現場を知らず、見ようともせず「記」「紀」を丸呑みする方々は今も、尚、後を絶ちません。その現場さえも自己保身のために無かった事にする旧石器ねつ造事件の藤村新一(本当は彼を利用した連中が外にもいるのです)の様な人々も後を絶たないのですから(ニシダニも)、貴重この上ない資料を何故保存しようとされないのでしょうか?ともあれ、これが記録として残されただけでも幸運だったように思えます。

要は「日隅宮」は国譲りの代償として高木大神が建ててやる(建てさせる)とした神殿の名称なのです。

では、「出雲国風土記」も見ておきましょう。引用は、「出雲の八咫烏 出雲神話 古代出雲族」です。


無題.png天日隅宮  杵築の大社 「出雲大社」

「神魂命(かみむすひのみこと)詔りたまひしく、「五十足(いた)る天日栖宮(あめのひすみのみや)の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の栲紲(たくなは)持ちて、百八十(ももやそ)結びに結び下(た)れて、此の天(あめ)の御量(みはかり)持ちて、天下(あめのした)造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ」と詔りたまいて…。」

記紀によれば、国譲りにより葦原中つ国を天孫に奉還した大国主命が、退いて幽冥(かくりよ)主宰の神となるにあたり、大神の住まう宮殿を造るよう求め、天照大神が諸々の神に命じ造営させたとありますが、「出雲国風土記」によれば、八束水臣津野命の国引き事業の後に神魂命(かみむすひのみこと)の命により、天御鳥命(あめのみとりのみこと)が造営したとあります。


八束水臣津野命とは大国主命その人ですが、八束水臣津野命 も国譲りを強要した草部吉見こと武甕槌=海幸彦が業績を奪っているようにも見えます。神魂命(出雲現地ではカモスの神と呼んでますよね、カミムスビをカモスと呼んでいるのです)は、神産巣日神(カミムスビ)そのものの大幡主の事です。

天御鳥命 はその子ヤタガラス=豊玉彦であり、実際には大分県日田市を基盤にしていた(だから豊玉彦なのですが)ヤタガラスが神殿を建て替えてやった事になるのです。

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百嶋由一郎 009八束水臣津野命 神代系譜


長浜神社は出雲大社以上に重要な神社です。是非ご参拝を…。この長浜は、博多港正面の「長浜」その地名移動で、古くは非常に長い砂浜が存在していたのです。この置換えが出雲の長浜神社になるのです。

博多と出雲は一衣帯水であると前述しましたが、博多を最重要拠点とした海人族の古くからの植民国家が出雲だったのです。

年齢が18581862(便宜的に西暦2000年を基準に表した積年)と明らかに異なるため、大国主と海幸彦が同一人物だったという意味ではなく、業績を奪い消し去る事例を表示されているようです。


無題.png  日本書記と出雲 佐藤雄一より転載

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通称「明治15年全国小字調べ」

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2021年06月15日

011 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “旧夜須町の大巳貴神社”

011 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “旧夜須町の大巳貴神社”

20210518

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄

 この話について百嶋先生は一言も断定も明言もされていませんでしたが、これまでの条件から言えばこの地以外にはありえないと考えたことから当グループ内ではコンセンサスが進んでいるところです。

 ただ、一般的にはどうかと言えば、このような突飛な話を持ち出すのは全国でも我々だけであって、“これまでの郷土史家と言われる方々は一体何をやっていたのだろうか?”と不思議に思うばかりです。

 恐らく通説派の学者などから吹き込まれ彼らの下請け的に視野の狭い活動を強いられてきたからだろうとは思うのですが、何時の時代もエピゴーネンどもは蔓延り続ける物だと思うばかりです。

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福岡県は筑後川北岸の沃地(筑前地方)=葦原中ツ国を


非難を受けることは重々覚悟していますが、今では全体的背景、個別的資料、物証と言える現存物…と客観的な条件が浮き上がってきているのです。

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考えれば「出雲の国譲り」とは非常に奇妙な話です。天の岩戸隠れの時もでしたが、出雲の国譲りの時にも天安河に神集(カミツドイ)いし対応策を談合しています。

部分的ですが、「日本書紀」でも高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)が国譲りを大国主(オオクニヌシ)に迫る時に「天安河に打ち橋をかける」と約束しています。

この神々の談合に於いて天照大御神は葦原中つ国は日嗣の御子が治めるべき土地であるとして国譲りを強硬に主張します。

勿論、その背後にいて画策したのは明らかに高皇産靈尊=高木大神だったと考えられます。

 この安河ですが、筑前町ではなく現朝倉市西部の領域に下渕(旧安川村)、 甘水(旧安川村)、 隈江(旧安川村)、 持丸(旧安川村)、 千手(旧安川村)、 長谷山(旧安川村)、 楢原(旧安川村)があり、現在の彦山西麓の旧小石原村(現東峰村)から流れ出す小石原川流域こそが旧安川だった事を思わせるのです。

 朝倉市、朝倉郡は、古代より筑前国15郡の「夜須」「上座」「下座」3郡をなし、「和名抄」でも下座を下都安佐久良(シモツアサクラ)、「延喜式」も上座を上都安佐久良と記している。

 一方、現筑前町は旧夜須町+旧三輪町(夜須郡 古代安郡)によるもので、「安」は直接天の安川に通じると考えるべきなのです。三輪山も神功皇后の目配山と変えられていますが、三輪山も本来ここなのです。

 その背後には、彦山を本拠地とする高木大神(高皇産靈尊)、武甕槌(草部吉見=ヒコヤイミミ高木の次女を妃とする)、天照大御神(高木大神の叔母と列島大率姫氏の娘)という強固な勢力が存在していたのです。さて、外部の方はご存じないでしょうが、この地(筑前町弥永)には何故か堂々たる県社オオナムチ神社があります。

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オオナムチ神社も昔は「大国主神社」の看板を大っぴらに出していたのですが、最近、何故か表に出してはおられません。

 それはともかく、この地に何故出雲の神様がおられるのかについては、地元郷土史家は元より、九州王朝論者に於いても全く見当が着かないようで、神社の側でもオオナムチ神社と名乗っているにも拘らず大国主命を表看板では引っ込めておられるようです。替わって神功皇后の兵を集める話を前面に押し出しておられる事からは、既にこの大国主祭祀には神社自らが不思議に思っておられるふしがあるのです。

 勿論、私達もそう思っていた訳です。

 ところが、九州全域の大国主命祭祀を拾い出す中で、これまで十数社を越える祭祀を見出したとして手ごたえを感じていたのでしたが、新たに長崎県だけで主神として大国主命を祀る神社が90社もある事を発見するにつけ、この神社はもしかしたら本物ではないかと思うに至ったのでした。

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「福岡県神社誌」を全文掲載していますのでお読み頂くとして、依然、これだけでは核心は拾えません。 祭神は天照大御神、大巳貴命、春日大神としています。これをそのまま真に受ける危険性はあるのですが、いずれにせよ国譲りの結果、大幡主系、無題.png大国主系を排除したのですから、彦山の高木大神系、草部吉見系の祭神に替えられていると見るべきでしょう。 

 右は、参拝殿上部の壁面にある大国主命暗示するモチーフで通常「波乗り兎」と呼ばれます。

 神殿ではなく参拝殿の右手に鮮やかに残されています。当然、因幡の白兎の故事に因む物です。

まず、境内最初の鳥居の先の参道左に大行事と書かれた石塔があるように、この神社も高木大神系に制圧されていた事は明らかで、当然にも境内社として八幡宮、八幡神社が3社もあるのも頷けるところです。 た無題.pngだ、神殿背後にある祠だけは大幡主=カミムスビを祀る正八幡神社であろう(あった)と考えています。

 祭神の天照は高木大神の親族ですから当然として、ここでの春日大神も藤原の軍神=奈良の春日大社とならざるを得ないのですが、もしかしたら藤原の祖である草部吉見の後の妃である辛国息長大姫大目命の母君=ミヅハノメ(大国主命の姉)なのかも知れません。

 今や、参拝殿左手にオチャラケた大国主像が置かれているだけで、全くのお伽話に仕立てられているのです。

オオナムチ神社の名も何れ消される運命なのかも知れません。

 しかし、この地にはしばらく前まで三輪町がありました。

また、神功皇后伝承から消された様ですが、目配山とされた三輪山があったのです。実に興味深い謎のエリアなのです。ではここからさらに話を動かします。

出雲神話の中でも国譲りの話はその根幹を成しています。それは、葦原中津国の平定こそが天津神々(所謂天孫族:高御産巣日神=タカミムスビ、高木大神の息子ニニギ、後の天照大御神=オオヒルメムチ)にとって極めて重要な事だったからだと考えられるからです。

ところが、そこがどこであるかが判然としないのです。

単純に言えば葦原中津国とされる出雲の支配権を奪われた大国主は何故出雲にいるのでしょう?

これは後の藤原が造ったテーマ・パークとしての出雲王国だからであって、簡単に言えば九州の沃地である葦原中つ国を奪われ、追われ移動した先が現出雲だったと考えるべきなのです。

「古事記」の出雲の国譲り神話を単純化すれば、天つ国である山上の国の高天原から地上の国とする葦原中つ国の支配権を大国主命から受け継ぐという神話です。「記」、「紀」でこの神話がもたらす理解は大きく、天皇家による列島支配権の正当性を詠っているのです。

結局、この神話がなければ、天孫降臨神話は只の侵略にしかならず、神武東征に始まる近畿天皇家支配の正当性は説得力に消失する事になりかねないのです。

「古事記」によれば、高天原からアメノホヒ(豊玉彦=ヤタガラス=カミムスビの子)が使者として派遣されますが、彼はオオクニヌシに取り込まれて3年経っても復命しないのです。

次にアメノワカヒコが弓と矢を貰い国譲りを要求しますが、これも8年経っても復命しないのです。

その後も工作は続きますが、タケミカヅチとアメノトリフネが派遣され、タケミカヅチは十拳剣を波頭にさかさまに立て、その剣先にどっかとあぐらをかいてオオクニヌシに国譲りを迫るのです。

そこでオオクニヌシは「年老いた自分では決められない」と、わが子であるコトシロヌシに判断を委ねます。コトシロヌシが国譲りに同意すると、「もう一人の子どもであるタケミナカタにも聞いてほしい」と、言いました。タケミナカタはすぐには賛成せず、「力比べで勝負してきめよう」と、タケミカヅチに挑みますが、敗れて逃げ出し、信濃の諏訪湖で追い詰められてこの国から出ないことにより許されるのです。

二人の子どもが同意した事により、オオクニヌシも国譲りを受け入れ、「その代わり、立派な宮殿と同じくらい立派なものにしてくれ」と言ったとされているのです。

好い加減な記憶で、記紀を混同させながら、非常に簡略化した話にしましたが、詳細は原典を読まれるなりネット上にも多くの研究資料が落ちていますのでそちらをお読み下さい。

 そこで次回取り上げようと思っているのがほんの50年ほど前まで実在していた(実は今も現存していたのです)代替えの神殿としての「日隅宮」(現地ではウヅノミヤ)に関わる話です。

 この話に入り込む前に、この大巳貴神社の周辺と併せて考えて頂くことにします。


葦原中つ国を威圧する彦山の高御産巣日神系天孫族

無題.png大分県日田市はその中心部の田島(宗像大社辺津宮と同一)に大原八幡宮が鎮座し、繁華街に玉川町があるように、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの子であるヤタガラス=豊玉彦の支配領域であることは間違いないでしょう。

 対して、甘木、朝倉、把木という現朝倉市が本来は大幡主=カミムスビの支配領域であり、それを継承した大国主命の支配領域であった事は田神社の論証に依りある程度ご理解頂いたと考えています。

 しかし、その沃土を脅かす勢力が勢力を拡大させていたのです。

 それが、北の山岳地帯を基盤とした彦山山岳修験の武装パルチザン勢力であり、その背後にいるのが高木大神ことタカミムスビだったのです。この勢力は筑前町から日田市までの直線で2030キロの場所にあり、半日を待たずして平地に駆け降り地域を一気に制圧できるだけの力を持っていたのでした。そして、それが彦山山岳修験だったのです。この事を象徴するかのように今も大巳貴神社の鳥居の傍に大行事社の石碑が残されています。

かつて、この地も高木大神系の制圧下にあった事を象徴しているのです。

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無題.png彼らは彦山の周りに事実上の行政機関としての48大行事社を置き下界を圧していたのでした。

 ここで、敬愛するブログ「正見行脚」氏から大行事社(高木神社)を細切れながら引用させて頂きます。


佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)


英彦山(田川郡添田町)は、天照大神の御子天忍骨尊(天忍穂耳尊)が天下った霊山故に、当初は「日子の山」といわれ、天忍骨尊が英彦山神宮(英彦山頂上宮)に祀られているが、本来、英彦山頂に祀られていたのは山頂直下にある「産霊(むすび)神社」の祭神高皇産霊神だったのではないかとの説がある。
 それ故に高皇産霊神を祀る高木神社(旧大行事社)が英彦山神領を守るように英彦山を取り巻いて鎮座しているのだろう。
()英彦山は、もとは彦山だったが、1729年(享保14年)の霊元法皇院宣で「英彦山」の表記となった。 
()彦山神領「大行事社」は、明治維新後、「高木神社」に改称、高貴な祭神高皇産霊(たかみむすび)を祀る神社ということから「高木神社」としたのだろう。
 「佐田高木神社」境内に立つ「神社を後にして御幣を手にして金剛杖をつき笈を背負って行脚する山伏のイラスト(画像3)を載せた陶器「案内板」には次のように記されている。
 無題.png「大行事社ともいう。黒川宮園にある高木神社同様、彦山の方七里(約二八キロ四方)の神領内におかれた鎮守社の一つ。彦山の山麓にはこうした社があわせて四十八あり、彦山を取り囲むように配置されていたといわれている。
 また、この地は彦山詣の道筋であり、信仰心のあつい人々が佐田仏谷通堂(とおりどう)をぬけ、この社を後に彦山へ向かった往時の情景がいまもしのばれる。現在、祭礼は毎年十月二十三日に行われている。」
 因みに、山伏の彦山修験では彦山霊仙寺末社ともいう英彦山神領四十八大行事社(末社高木神社)のすべてが現存しているものかどうかは分からないが、高木神社でヒットした次の30社の鎮座地を参考までに下記しておく。
 ただし、この30社のなかには合併などでなくなっている神社もあるのではないかとも思うが、すべての所在の確認をしている分けではないので、現時点で現存有無の区別はできない。


当方も48大行事社については1020社は廻っていますが、徐々に神社を維持する意味も習慣も薄れつつあるのですが、大行事という地名も含め尚もかなりの数の神社が今も多数の存在しているのです。

 無題.pngいずれにせよ神集いし葦原中つ国の国譲りの談合を行った天の安川=安川(朝倉市甘木〜旧夜須町)があり、筑前町弥永に大巳貴神社が現存し、大幡主こと神産巣日神の支配領域を表現する60もの田神社があり、彦山には高御産巣日神を筆頭に、その次女栲幡千千を妃とした天之忍穂耳命=正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊=草部吉見=ヒコヤイミミ(実は国譲りを強要した武甕槌)が祀られ、この一帯に全ての役者がそろっているのです。ここで百嶋神社考古学の立場からさらに踏み込み、 

高御産巣日神、天照大御神、高木大神、天之忍穂耳命の関係を確認し、何故、国譲りを強要したかをお話しし終わりとさせて頂きます。右は彦山上宮⇒
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百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


百嶋由一郎最終神代系譜によって考えるとより鮮明になりますが、結局は天孫族=赤組(タカミムスビ系)VS国つ神=青組(カミムスビ系)+天御中主系の暗闘であり、彦山を拠点としていた高木大神がその周囲、特に南北の沃土を制圧し、国譲りを強要したのが出雲の国譲りの正体だったのです。

「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ)が治めるべき国である」とした。天照大御神を赤組に加えていますが、この女神は周王朝の末裔である列島大率姫氏と高木大神の叔母との間に生れた神武と腹違いの姉だったのです。

これについては、古川氏が書かれている ひぼろぎ逍遥(跡宮)737佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る などをお読み下さい。

とすると、天照は高木大神系の人物であり、大国主に国譲りを強要する高木大神グループであることが分かるのです。

彦山の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が赤組の実力部隊なのですが、彼こそ阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミであり、藤原氏の先祖なのです。

彼は高木大神の次女栲幡千千を妃としていることはその時点では入婿に近く、その範囲で高木大神系であると言えるのです。

一方、青組の大国主命は大山祗の息子なのですが、大幡主系の宗像三女神の市杵島姫と豊玉姫をお妃としているのです。

大山祗は有名なニニギとコノハナノサクヤの出会いから、南九州の人であることはほぼコンセンサスを得ているのですから、その息子が本来は南九州を地盤にしていた可能性は高いのです。

決して出雲で産まれた出雲出身者などとは考えるべきではないのです。

ここまで考えてくると、朝倉市の北、飯塚市桂川に、何故、出雲交差点が存在するのかも見えてくるのではないでしょうか?朝倉市一帯こそ国譲りの現場だったのです。

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010 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “福岡県朝倉市の田神社”でとりあげた田神社の現地調査で廻っていると、同じ弥永の田神社に驚くべき解説文を発見したのです。次回、続く012でこの話に入ります。

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2021年06月10日

010 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “福岡県朝倉市の田神社”

010 大国主命の国譲りとは何かその奪われた土地とはどこなのかを探る “福岡県朝倉市の田神社”

20210515

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


長崎県に大国主命を主神として祀る神社が異常に多い(90社)との事実を今頃把握しその位置付けに苦労しています。

516日辺りに北松浦郡つまり長崎県松浦市周辺を数名で探ろうとしていましたが天候が思わしくなく、結局、6月に延期しブログを書くことにしました。いよいよテーマは核心部に近づいてきました。

既にひぼろぎ逍遥氏こと古川氏が多くを書いておられますが、整理する上で百嶋神社考古学の立場から再構成したいと考えています。

まず、百嶋先生は“皆さん大国主命を出雲の方だと勘違いされています”“スクナヒヒコナノミコトは妙な名の神様と思われるでしょうが、スクノヒコノミコトと考えて下さい”“朝倉郡で最も分かり易い田神社は朝倉市甘木公園にある田神社です”…などと言っておられました。

これらの事から、今考えれば古川氏などが提案されている内容は百嶋先生のお考えに沿った形で調査が進んでいると考えて良いのだろうと思います。


田神社の不思議


重要なのは次の二点です。一つは旧朝倉郡に大量に分布している60社の田神社(埴安彦=大幡主=カミムスビ、埴安彦+埴安姫…)が1社を除き全て無格社扱いとなっている事で、これは筑後川北岸の大幡主系の沃土が恐らく高木大神=タカミムスビ系に奪われた事を意味するのではないかと気付いたのでした。

この辺りまでは百嶋先生は匂わせておられたのでした。

二つ目は、実のところ百嶋先生からも聴いていなかった話なのですが、事務局の中島氏が発見し、その記録として残されていた「日隅宮」が郡境の旧夜須郡にも田神社があり、「古事記」の出雲神話に登場する国譲りの代償とされた大国主命の代替の宮が50年前実在していた可能性が一気に浮上したのでした(夜須郡は現在の朝倉郡筑前町夜須地区と三輪地区)。今回はこの辺りから話を進めたいと思います。

詳しくは宮原誠一氏、古川清久氏などのブログを読まれるとして、一般の方へ分かり易く伝えることが本ブログの目的ですので、極力余計な部分を捨象し単純化したモデルでお伝えしたいと思っています。

まず、全部はお見せできませんが、「福岡県神社誌」下巻399p辺りから…

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ご覧の通り、朝倉市の北隣になる飯塚市にも田神社があるように、北九州市の一部も含め朝倉郡以外にも分布しているのです。これらは恐らく組織的な移住者によって齎されたものなのでしょう。

飯塚の例では倉稲魂神となっていますが、大半は大幡主の別名である埴安彦と思って間違いありません。

実際には、現在の朝倉市全域に亘る、旧甘木市、朝倉町、杷木町に60社近い田神社が一社を除き無格社とされているのです。

一般には他の神社の境内摂社になっているところもありますが、堂々と田神社として普通の鎮守様の様相で残っているところもかなりあるのです。

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朝倉市の中心部甘木の本町地区に鎮座する田神社


50年前まで大人も泳げるほどの豊かな湧水池があり(今は涸れています)その横に立派な田神社が鎮座しています。

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旧朝倉郡内で一社だけ村社となっている馬田村草水の田神社 これは恐らくお目付け役ですね


無題.png60社の田神社が一社を除き無格社扱いとなっている事は、元々この旧朝倉郡一帯は、埴安彦、埴安命、地禄神、大幡主…の名で呼ばれるカミムスビ神を奉斎する大幡主系(白族)の支配領域であった事を今に伝えており、何らかの政治的な変化によって、この現象が生じている様に見えるのです。

この変化が何によって生じているのかが問題であり、それが「古事記」に言うところの出雲の国譲りだったのではないかと考えているのです。

つまり、出雲の国譲りの現場とは旧朝倉郡一帯だったのではないかという仮説です。画像は 無題.png何と「ウヅ柱」と呼ばれているのです。重要ですので是非記憶しておいてください。この話をすると決まって持ち出されるのが例の出雲大社の三本の束となった大柱の痕跡の発掘と保存の事実です。

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ただ、注意しなければならないのは、この木材の炭素14による理化学的年代測定からは、1200年代という鎌倉初頭期のものであり、大騒ぎした古代出雲王国とか近畿大和朝廷に先行する古代国家の証拠といったものでは全くないのです。

その観点からは、むしろ、多くの銅鐸、銅剣がまとまって出土した荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の方が余程その時代に近接する物とは言えるのです。これらによって出雲の方が近畿大和さえも凌駕する実態を見せつけたのでした。その点、この調査報告には非常に有難く思っております。

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日本の考古学会は理化学年代ですら誤りであるかのように開き直り無視しているのです。

それは、既に確立している(彼らが決めただけの事ですが)土器編年の見直しを強いられ、師の説にそのまま準え、若手の疑問を封じ込んできた強要があからさまになるからなのです。

仮にやったとしても、「日本書紀」などの文献に依拠し、年代を逆に組み込む傾向のある考古学界の実状からは極めて清涼な印象をさえ受けたのでした。

むしろ議論するならば、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の方が遥かに重要に思うのです。

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「島根県大社町出雲大社境内遺跡の発掘調査の成果」についてはネット上から拾いPDFながら十分に読むことができますのでご検証願いたいと思うものです。

さて話を朝倉市の田神社に戻しますが、朝倉郡でも最も象徴的な朝倉市役所裏に在る甘木公園に鎮座する金毘羅神社の田神社をご覧頂きましょう。

朝倉市甘木公園の金毘羅神社も元は田神社であり、本来国譲りを強要された大国主命の領地だった…と主張するのはいささか強烈過ぎるかも知れませんが、今の段階での理解はそうとしか思えないのです。

 まず、旧朝倉郡(甘木、朝倉、把木)一帯に田神社なる神社が大量に存在している事を知る人は神社ウォッチャーの中でも極めて少ないと思います。

 驚くべきことに旧朝倉郡だけでも60社ほどの田神社があるものの旧馬田村の一社を除き全てが無格社(「福岡県神社誌」下巻無格社一覧参照)に格下げとなり、その辺りが知られない理由かも知れません。


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現在、田神社は金毘羅神社の参道直下の門番のような神社にされていますが、金毘羅神社の祭神=一般には大国主命(百嶋説によれば大山咋)からすれば遥かに格上の大幡主(博多の櫛田神社の主神)=カミムスビ神なのですから、決して山上の金毘羅神の裾に置かれる様な神ではないのです。

既に何度も書いてきた事ではあるのですが、この田神社は平野部に60社は分布し、ある時期には支配的な神であった事が分かります。

 一方、朝倉郡の北の背後の山地には多くの山神社、大山祗神社が分布している事に気付きます。

 百嶋翁の説によれば、この山神+田神こそが鹿児島のタノカンサー擬神体でありこの両輪で鹿児島の開

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拓が行われたのであり、その起源はこの地にあったと言う意味だったようです。

 それが分かってきたのは、何故、格上の田神社が門番のような役割を担わされているのかと言う疑問がようやく融けて来たからでした。

これまで不鮮明だった田神社降下の時期は、江戸時代の金毘羅宮隆盛の時期か、出雲の国譲りの現場がこの地であり、その激変に伴う変化が反映しているのではないかという思いがあります。まだ分かりません。

この田神社の多くが無格社に貶められた時期に山上の田神社が引き下ろされたと考えるのは全くの仮説でしかありませんが、この間、朝倉市の西の筑前町(旧三輪町+旧夜須町)に日隅宮が存在した(今も存在している)事を発見し、大国主命の義理の父神である大幡主(=田神社の祭神)がほぼ全て無格社に落されている事から考えると、何らかの政治的な力が働き現在の状態が成立して入る様に見えるのです。

もう一つの可能性は江戸期に流行した金毘羅宮信仰は元々徳川家の参謀だった天海僧正の山王一実神道の影響があっての事で、その際に祭神が入れ替わったのではないかとも思うのです。

そのいずれであるとしても、本来、山上の金毘羅宮は後から持ち込まれたものであろうと思うのです。

何度も訪れた金毘羅宮(甘木の)でしたが、改めて神殿背後に回ると大国主命などを祀る祠があります。

金毘羅宮の神殿背後に尚も大国主命祭祀が残っている事は元々の祭祀であったように思えるのです。大国主命祭祀は筑豊でも消されるも散見されるもので、信仰の情念とはかくも強固なのです。

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この大国主命祭祀はこの辺りの事情を知る人々がおられたか、何らかの伝承が残されそれを守ろうとする情念の現れがあってこそ成立しているはずなのです。

 始めは重視していなかったのですが、筑前町の大巳貴オオナムチ神社に近接する弥永の田神社(天神社)に移設された日隈宮を発見してこの方向で考えて来たのですが、田神社=カミムスビ=櫛田神社の大幡主をシンボルにする大国主支配領域を譲渡させられた「出雲の国譲り」の現場がこの朝倉郡であり、その痕跡が60社もの無格社に落された田神社であり、代わりに持ち込まれたのが金毘羅宮だったのでしょう。

現在もその背後に残るのが大国主命祭祀であり、大黒様の面であり、エベスさんの面と考える価値はあるのです。そして、実はこのエベスさんも甘木の中心部に残されているのです。

 一般的に神社の祭神配置というものは、背後に坐する神ほど格上であり、偉い神様ほど後ろに控えているのです。

してみると、金毘羅宮の祭神が大国主命とされる(四国はそうですね)ものの、金毘羅宮が大山咋=日吉、山王、松尾、日枝…であるものが混在している意味も解析が可能になりますし、もしかしたら、金毘羅神が山上に鎮座する前の本来の祭神の痕跡ではないかとまで考えるのです。

 この大国主命祭祀の起源がどこまで遡るかの解析ができない中での話ですので説得力はないのでしょうが、こういった作業の連続が定説の存在しない神社研究であり、思考の冒険程度の事として留めておくことにしたいと思います。

 もしも、筑前町の田神社境内地に移された日隅宮が出雲の国譲りの起源とすれば、甘木の中心部に鎮座する西の宮の恵比須神社も本物である可能性が浮かび上がってくるのです。

毎年歳男選びのラリーを続ける兵庫県西の宮のエベス神社もこちらから移動したはずなのです。

当然にも真面目に考えるべきなのです。何故ならば、等しく西の宮と呼ばれているからです。

 そして、最近になって、筑前町(新町)にも西の宮エビスが存在している事も分かってきました。

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posted by 奈東南雄 at 00:00| Comment(0) | 日記