2021年05月27日

009 大国主命はどこで産まれたのか “大国主命の母神は博多の人”

009 大国主命はどこで産まれたのか “大国主命の母神は博多の人”

20210329

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄


 あくまでも百嶋由一郎氏の神代系譜に依ればという仮説ですが、大山祗命が日向の人であることはある程度推定が可能な上に木花咲弥比売(コノハナノサクヤ)がニニギの求婚に際して父神大山祗命の許可を得る必要があるとした故事からも推定が可能になります。

 一方、母神の埴安姫は博多の櫛田神社の大幡主(実はカミムスビ)の妹にあたります。

 また前にお話しした通り、大国主命は、天御中主命の後裔氏族(白族)である大幡主の一族への入婿と申し上げました。

 何故そんなことが言えるのかというと、まず、白族の重要人物一般に言える事なのでしょうが、「主」という尊称を使っている事です。

 天御中主、大幡主、布津主(山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦)、事代主、神主玉、大物主、丹波道主…と。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


一方、埴安姫は大山祗のお妃となる前に、金山彦のお妃となられており、神代史を飾る絶世の美女の一人とされる櫛稲田姫を産んでおられるのです。

その後、ナガスネヒコの乱の影響によるものか、大山祗命のお妃となられ、神大市姫、大国主、木花咲弥姫を産んでおられるのです。

もう一人の絶世の美女とされる木花咲弥姫も産んでおられるのですからさぞかし母神の埴安姫も美しかったのだと想像してしまいますが、これは以前にもお話させて頂きました。

さて、現在の列島の風土から演繹できるかは不確かですが、出産となるとどうしても母方の実家で出産する方が安全で余計な神経を使わずに安心して出産できる事は現代でもある程度推定できそうです。

このように母方の実家となると博多になってしまい、大国主命もこの辺りで産まれたのではないかと思うのです。

その様に考えると、外洋に面し直ぐに攻略される博多よりも筑紫野市、太宰府市、春日市辺りの内陸部に幼少期を過ごした可能性は高く、少彦名命(春日市 須久 岡本辺りにいた)と遊び仲間だった事は良く分かるのです。

コノハナノサクヤは早々とニニギと別れ、どうも暫く鹿児島空港がある鹿児島県の旧溝辺町辺りに居た様で(前玉神社)、これについては「ひぼろぎ逍遥」を書いておられる古川氏が書いておられるのです。

では、コノハナノサクヤヒメはどうでしょうか?実ははニニギと別れた後に前玉姫(サキタマヒメ)と名を変え、ヤタガラス(豊玉彦)と一緒に鹿児島県溝部町の前玉神社に移動し、後には富士浅間神社、埼玉県行田市の埼玉古墳群正面の前玉神社に祀られておられます。そして埼玉県の県名の元ともなってもいるのです。これらについて詳しくは以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)023 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 23本。

では姉の神大市姫はどうなのでしょうか、これも古川氏は ひぼろぎ逍遥(跡宮)522 鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見 で、ミズハノメこそが大山祗系を継承しているのではないかと考えておられる様です。

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神社自体は至って古風で、それだけでも心が惹かれますが、境内には寺師氏の出身地との石標が建てられていました。この寺師の一族は琵琶湖の北に展開しており、大山祗系の重要氏族だったと考えておられる様です。

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御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)


なんと御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)の一神でした。単独での祭祀は初見です。

以下は前玉神社。


前玉神社 サキタマジンジャ 祭神 福玉大明神 サチタマダイミョウジン

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百嶋由一郎「桜子」神代系譜


有力者であった豊玉彦=ヤタガラスは多くの氏族(民族)から姻戚関係を求められています。

 その事を端的に表したのが「桜子」神代系譜なのです。

 話は突如飛びますが、私が日向に対して持つイメージは腰の強いうどん店が多い事で、この粉食を好む傾向が埼玉と通底しているという印象を強くしています。言うまでもなく、諏訪のオヤキ、山梨のホウトウ、埼玉のフライ、ひるがえって、愛媛から香川の腰の強いうどん麺は北部九州からすると異色であり、コノハナノサクヤの父神を祀る大三島の大山祗神社を思わせます。この話はいずれまた詳しく。


百嶋由一郎氏の神代系譜、講演録音声CD、手書きメモスキャニングDVDを必要な方は直接古川氏に連絡してください。09062983254
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2021年05月19日

008 大国主命の正体を百嶋神代系譜から探る “大国主命は大山祗の息子だった”

008 大国主命の正体を百嶋神代系譜から探る “大国主命は大山祗の息子だった”

20210323

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


それでは大国主命の素性を一緒に探りながら、百嶋神社考古学の立場から考える事にしましょう。

百嶋由一郎氏が人生の最終末期に全精力を打ち込んで書かれたのが最終神代系譜です。

この系譜の中心には白川伯王(天御中主の弟)−大幡主(カミムスビ)−豊玉彦(ヤタガラス)という白族の縦の流れが描かれそれを軸に多くの氏族、異なる民族とが姻戚関係を結んでいる事が判るのです。

この白族は中国の雲南省昆明の滇池や雲南省麗江の大理の周辺に居た人々です。

その後裔が京都の上下鴨大社、博多の櫛田神社に象徴されていると考えられて結構です。

この民族(後の橘一族ともなり)は大山祗(熊襲の主力トルコ系匈奴)や高木大神(タカミムスビ=イスラエル系)や金山彦(カグツチ=イスラエル系)…姻戚関係を結び呉太伯の一族を天皇とし担ぎ、我が国(倭国から自ら倭国ではない別の国日本と名乗った倭国を裏切った一部による後裔国家)を支えていたと考えられるのです。

系譜を見る事無く説明するのは非常に理解し難いので、「百嶋神社考古学研究」を開き同名のタイとトルのブログから神代系譜を見ながら検討して下さい。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


故)百嶋由一郎は「古事記」の神代編にほんの僅かだけ登場するウマシアシカビヒコヂは東西分裂したトルコ系匈奴の東匈奴が、再度、南北分裂し半島に南下した南匈奴(王昭君の後裔)が金武官伽耶に入り金海金武氏となった。その一族の長であるがウマシアシカビヒコヂが白族の天御中主命と夫婦となり産まれたのが大山祗でありその子に上から神大市姫、大国主命、木花咲弥姫の兄弟が産まれている。

まず、超古代国家出雲王朝などと言ったイメージに振り回され、炭素14同位体による理化学年代測定に依れば高々鎌倉期程度のものでしかない芯柱発掘に踊らされ奇妙なイメージだけを膨らませた古代史ファンを尻目に、百嶋由一郎氏の最終神代系譜には大国主命の血筋が淡々と記されているのです。

まず、姉の磐長姫を突きかえしてまで木花咲弥比売のみを妃としたという妙な話しか頭に残っていない人が多い中、大山祗の娘であるコノハナノサクヤと磐長姫が姉妹ではない事、出雲の人として信じ込まされている大国主命がコノハナノサクヤの兄だったなど、古代史ファンの脳味噌を破壊するような系譜となっているのです。

ここで市杵島姫は海幸彦=草部吉見=ヒコヤイミミの、豊玉姫も山幸彦=彦火々出見命のお妃になっている事が不思議に思われるかも知れません。

しかし、古代の有力な民族、氏族は自らの一族を守るために情勢の変化に合わせ政略結婚の見直しをするからなのです。

ではどちらと先に婚姻関係を結んだのかを考える時、絶対とまでは申せませんが一応の指標となるのは子供の生年です。

市杵島姫も始めは海幸彦のお妃となるも後に大国主命のお妃となっている事が確認できそうです。

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大国主を主神とする 日向一ノ宮 都農神社(左) 木花咲弥比売を主神とする 日向二ノ宮 都萬神社(右)


大国主命が日向を起源とする民族であると言う話は中々受け入れられないと思いますが、大国主命はやはり熊襲と考えるべきなのです。

ここで思考を中断させますが、大国主命は大山祗の大切な後継者であり、それが博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ神)の白族=天御中主命の流れを汲む市杵島姫、豊玉姫を妃として言わば入婿になります。

では、大山祗系は如何に後裔を維持しようとしたのでしょうか?

これは後に分かるのですが、大山祗系は神大市姫=ミヅハノメを中心に後裔を維持している様なのです。

これが、日向に行くとやたら稲荷社が多い理由であり、それは稲荷様=伏見稲荷様がそのミヅハノメとスサノウとの間に生れた辛国息長大姫大目命だからであり、列島全体に大展開し蔓延っている事で少しは納得できるのではないでしょうか。

つまり、半島南部の金武官伽耶の金海金武氏のウマシアシカビヒコチと天御中主命が夫婦となり、続く大幡主の世代では大幡主の妹である埴安姫を大山祗の妃とし(当初は金山彦の妃となり櫛稲田姫を生むが後に大山祗の妃となり)神大市姫、大国主命、木花咲弥比売を生むのですから、埴安姫は古代史の世界の美女櫛稲田姫、木花咲弥比売を生むそれほど美しい女神様だった事が判るのです。

次の世代では大国主命は宗像三女神のお二人をお妃していますので、三世代に亘って同族と言っても良いような強固な姻戚関係を結んでいた事が判って来るのです。

この大幡主系(白族)、大山祗系(恐らくトルコ系匈奴)、金山彦系(イスラエル系)民族ともに強固な姻戚関係を相互に結んでおり、これが古代九州王朝を支える最も重要な民族、氏族だったのです。

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イスラエル系金山彦(秦の始皇帝贏政とも同族として姻戚関係を結んでいる)は埴安姫をお妃として強力なスクラムを組み、金山彦(瀛氏)+白族+大山祗(トルコ系匈奴)は、スサノウ系昔氏(ソクシ)と合わせ共に強固なスクラムを組んでいるのです。

そして、この神輿に乗ったのが江南の呉国から列島に避退した呉の夫差の後裔達(九州王朝系天皇:神武、懿徳、孝霊、孝元、開化、仁徳…)だったのです。

綏靖、安寧(カミムスビ=九州王朝を支えた将軍=大幡主)、孝昭(草部吉見=海幸彦=ヒコヤイミミ)、孝安(玉名疋野神社主神)は後の藤原が自らのウイングを拡げるために天皇扱いにした贈)天皇で血統も民族も異なる只の有力豪族に過ぎないのです。こんなことは現天皇家もちゃんと知っているはずです。

とにかく大国主命を出雲の人と考える安直な思い込みだけは好い加減にして欲しいものです。

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長崎市のグラバー亭の東にも何故か出雲地名があるのですがご存じですか?飯塚市桂川の出雲は必ずしも孤立地名でもないのです。しかも隣接して川上地名(ニュウ川上)があるのも意味があるはずなのです。

以前から「出雲」地名は「イヅモ」と読むべきではなく「イン」の置換えではないかと考えていました。

つまり、阿波の忌部の「忌」地名の一つを「出雲」と表記しているだけではないかと考えています。

忌、伊美、揖斐(M音とB音入れ替わり)が「出雲」と表記されているだけなのです。

ヤタガラス〜大国主命の支配領域が忌部ですので、方々に多くの忌部の地名があったと考えています。


このブログの利用の仕方について


このブログは単独で読まれても良いのですが、これまで書いてきた百嶋説の再構成に過ぎません。

ただ、並行して開始した百嶋神社考古学研究という各々のNO.のユーチューブの音声(動画)をサポートするために作成しているもので、言わば話す通りの内容をブログにしているものです。

このため、ユーチューブの音声動画を聴きながら、写真、図表、地図、神代系譜、手書きメモ…をブログで確認する事が出来るように、同一タイトルの動画とブログを二本立てで発信しているものです。

ネット上で、音声とブログを同時に再生し、神代系譜などをご確認下さい。

ユーチューブでは、資料の編集の手間が掛かりますが、ブログなら簡単であり、アドリブを効かせた話と資料を二重に再生する事によってより深く検索し確認する事も可能になるのです。

従来、ユーチューブ動画ではどこかで話していた内容を検索し探し出す事が出来ませんでした。

分かっていたとしても、どの部分でどう話していたかの検索ができませんでした。

この問題を解消するためにブログと音声動画とを二本立てにしたものです。

両方とも同じタイトルとしていますので動画とブログをセットで検索して下さい。


百嶋由一郎神社考古学研究会事務局


内容等に対する問い合わせは事務局中島090-5289-2994までお願いします。

現在、百嶋由一郎研究に影響を受けたブログは全国で256件を超えており、九州島内で活動中のブロガーだけでも10名近くに増えています。

既存の九州王朝論者の組織が研究者を失い、存続しているとしても通説派の教育委員会関係者とか学芸員などから都合の良い話を拝聴し拍手喝采するという体たらくを見せているのです。

ましてや村興し町興し果ては世界遺産登録に狂奔する行政の尻尾に成り下がりそれに迎合する研究だけが受け入れられる状況には目を覆いたくなります。

九州王朝論研究は九州王朝論者の中からしか生まれません。全国の九州王朝論者の皆さん、今後も「宇佐神宮は九州王朝の神宮であった」「神功皇后と高良玉垂命=開化天皇とは夫婦だった」「山幸彦は塩土翁の配下で製塩を行なっていた」「景行天皇は玉名市の出身」…といった話を公開して行きます。

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2021年05月15日

007 大国主命の正体を百嶋神代系譜から探る “その前に四面宮との関係を考える”

007 大国主命の正体を百嶋神代系譜から探る “その前に四面宮との関係を考える”

20210320

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


長崎県に大国主命を祀る神社が異常に多いとの事実を今頃把握しその位置付けに苦労しています。

ただ、その緊急現地調査によって高木大神と大国主命祭祀との関係が多少は見えてきました。

長崎県の南北高来郡(諫早地峡から島原半島一帯)には、多くの四面神社(25社以上)が存在し実質的にはタカミムスビ=高木大神を主神として祀る神社であると一応は承知していました。

今般、その実体に直面し興味深く見ているところですが、同地の神社群は連合体を形成しており現在も教線を拡げようとされているようです。

このため本来は百嶋神代系譜と大国主命祭祀の話をするつもりでしたが、一旦、四面神社と関連付けて考えたいと思うものです。

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ご覧の通り南北高来郡の重要な神社がかなり含まれており、中でも興味深いのは、故)百嶋由一郎が本来大国主命を祀る神社であると生前に強調されていた福岡県宗像市の宗像大社と同名の神社が諫早市の中心部に宗方神社としてありその祭神が大国主命だった事でした。

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宗方神社 祭神  天之御中主命、大巳貴命、少彦名命(長崎県諫早市宗方町 368番地)


この四面神社という高木大神直系の神社群は等しく大国主命を軸とする祭祀を持っており、長崎県下の

大国主命祭祀の中心を形成していると言う印象を持っています。

実は、この四面神社は南北高来郡だけにあるのかと思っていたら実際には他地域にも展開していたのです。

佐賀県の佐賀市、神埼市、熊本県では山鹿市、菊池市、愕くことに鹿児島県の島嶼部などにも広がりを見せているのです。そこでここでは場所が分かり易い山鹿市の四面神社を見たいと思います。

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無題.png以下、山鹿温泉の守り神 ” 四面神社 ” [ 山鹿市 ]から

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山鹿の豊前街道を菊池川のほとりまで下ります。そこから国道3号線の方へ進むと、国道の下をくぐる小さなトンネルがあります。

◎祭神 – 大己貴命 ◎祭日 – 9月9日

※ 山鹿市宗方にある、宗方八幡宮の飛地境内神社となっています。

◎四面宮に伝わる伝承

四面宮とは、珍しい名前ですが、九州には数カ所あります。古事記には、「九州は身一つにして面四つありとあるそうです。その四つの面に関係があるような名前ですね。

 長崎の諫早市にも四面宮があるそうで、そちらには随分と大きな而も由緒ある神社です。

そちらの四面宮にも「大己貴命」が祀られています。

 山鹿市の四面宮は、非常に古い神社(平安時代創立)であるといわれています。

雲仙岳の温泉神社から勧請してきたものと言い伝えられています。

山鹿は、古代(奈良時代以前)から温泉が湧いていました。

 最初に湧いていたのは、この近くの下町の天神様あたりだろう話があります。

その温泉の守り神として祀られたのがこの四面宮だったのです。

 温の端のお薬師さんより早く祀られた温泉の神様でした。

その証拠には、大正時代までは温泉祭の時には必ずお薬師さんの神輿は四面宮まで担いできて、ここで

中休みされていたとのことでした。現在、四面神社は、宗方八幡宮の飛地境内神社になっています。

宗方八幡宮は、筑前国宗像郡から移住した「宗像某」と云う人が勧請したと云われています。

この神社が浮島と称して、如何なる菊池川洪水の時も浸水したことがない聖地と云われているそうです。

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 以上、この様に3pにわたり  87社が掲載されているのです。後はご自分で検索をお願いします。


これで、付近に在る(山鹿市志々岐)志々岐阿蘇神社、祇園神社、諏訪神社の背後に何故か大きな大国主命を祀る石塔があり、かつては旧志々岐村の一ノ宮が大国主命だったと分かる痕跡が現在も保存されている理由の一端が見えてきました。

菊池川沿いの四面神社が雲仙温泉神社の関係で持ち込まれたかは不明ですが、山鹿市の中心部にも宗方という通りがあり“宗像大社の本当の祭神は大国主命である“を裏付ける様な一社にはなるでしょう。

何故ならば社名が宗像神社で祭神を大国主命としているのですから。

尚、お隣の菊池市七城町にも同様の神社があります。

内島四面神社(熊本県菊池市七城町蘇崎194番地)


  今回の話は多少枝葉の話であって、本質は九州島の長崎県以外では10社程度しか発見できない大国主命祭祀が長崎県では90社近く存在する事です。この問題は未だ解決を見ませんが、現在4回に分けて踏査に入っているところです。

  もしかしたら、九州に於いては長崎県の方の祭祀が正しく、他県が異常なのかも知れません。大国主命は九州で活動していた人物であり、その普通の表現が長崎県の例であり、それ以外は消されているのかも知れません。

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