2021年04月24日

003 九州島にも大国主命を祀る神社がかなり存在する @

003 九州島にも大国主命を祀る神社がかなり存在する @

20210216

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄


九州にも大国主命を祀る神社がかなりあります。

出雲ではないのに何故鹿児島も吹上浜の一角に大国主を祀る神社があるのかと言った話に入る前に、グーグルで、例えば「福岡県」□「大国主神社」と検索すれば、グーグル・マップでその神社が表示されます。

ただ、一例ですが、この中には明治の教派神道系出雲大社教教会が含まれています。ある程度の祭祀が現存していますが、これは明治の新興宗教として対象外と考えることにします。この系統の教会は出雲大社の教線拡大の要素が絡んでいるようで、今回の探査には無関係となります。

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これとは別に大国主を主神として祀るものの大國玉神社と呼ばれている神社が壱岐の郷ノ浦にあります。

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長崎県壱岐市郷ノ浦町大原触1125


これらの大国玉については大国魂(ニギハヤヒ)の匂いがする上に、「、」の位置を変えれば主とも玉とも読める訳で、自らの神社の保護と真実の継承も企図した過去があったのではと言う想像が浮かび上がって来ます(「主」と「玉」の問題は「玄松子」氏の指摘)。

ともあれ、このような不確かな部分を捨象したとしても、尚相当数の大国主神社が残るのです。

これらについては当の宮司も含めて、自分の神社が何故九州で出雲の神様を祀っているかが全く分からないといった答えしか返ってこないのです。

まずは、このような大国主を祀る神社の拾い出しをすることにしましょう。

ハッキリしたものは、福岡県筑前町(旧三輪町)、熊本県熊本市北区、熊本県水俣市湯鶴地区、鹿児島県日置市吹上浜、宮崎県津野町の都農神社(古代日向国=鹿児島+宮崎の一宮で大国主が主神として祀られているのです)、そして実は大国主が主神として祀られていた可能性が極めて高いのが宗像大社なのです。


では、グーグル・マップで再確認した福岡県の例を先行して一つ紹介します。

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大国主神社 福岡県行橋市沓尾80


「福岡県神社誌」(下巻)で無格社一覧まで確認しましたが確認できなかったため屋敷神の発展したものかも知れません。

さて、九州にお住まいになっていない方には、何故、ここにと思われる堂々たる大国主神社の例を幾つかお知らせする事にしましょう。

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大己貴神社 福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3


祭神 大己貴命(正殿)、天照皇大神(左殿)、春日大明神(右殿)旧夜須郡


自らも何故出雲の神が…として疑問を持つのか神功皇后の三韓征伐の話でアピールされています。

前ブログで説明したように神功皇后の父神である息長宿禰王は建御名方の子に当る人なのです。

それだけでも出雲の人ではない様に思われませんか?詳しくは、佐賀県佐賀市(旧三瀬村)杠(ユヅリハ)の野波神社、下ノ宮を検索して下さい。

さて、この大己貴神社には現在、天照と春日大神が随神として祀られていますが、そもそも高木大神(彦山)の指示で国譲りを強要したのが武甕槌=阿蘇高森草部吉見神社のヒコヤイミミ(藤原の祖)であり、 

春日神社の表面上の祭神が鹿島大神であったこと、天照大御神も高木大神=タカミムスビノカミの叔母を母神としている事(兵庫県佐用町佐用都姫神社の天照御祖神)を考えれば、国譲りを強要した側が高木大神系であり、それらに囲まれている事が浮かび上がってくるのです。

とは言え、非常に重要かつ貴重な神社であることは否定の仕様がなく、神代史を現代史に繋ぐ一社です。

これについては、このシリーズの後段で「古事記」の「日隅宮」の故事と併せ驚くべき事実をご紹介したいと思います。

例えば熊本県内にもご紹介したい神社が二〜三社ありますが、重要な神社を優先するため先を急ぎます。

前述した鹿児島県日置市吹上町の大汝牟遅神社です。これも堂々たる大社です。

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大汝牟遅神社 鹿児島県日置市吹上町中原東宮内2263


祭神 大己貴命外7


この神社にはイシノコンボサア(石の子望神様)という石を一個づつ持って来てお願いする神事が残っています。宮崎の都農神社にも同様の石持ち神事があり、紛れもない大国主神社であることが分かります。

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申し訳ありませんが駆け足で話を進めます。

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右の写真は都濃神社の石持神事です。京都の下鴨神社にも同様の白石持ち神事がありますが、こちらは那智黒のような黒い石ばかりです。

古代日向国とは簡単に言えば現在の鹿児島県+宮崎県に相当し、面積的には九州の1/4以上にはなるでしょう。

勿論、火山灰土壌の地である事から雨水はたちどころに土中に浸透し、海岸部や湖周辺の湧水として地表に現れることになります。

当然ながら稲作地帯ではなく畑作地帯であり、稲作に対応しない民族、氏族が入っている事が考えられます。この古代日向国の一の宮があまりと言うより殆ど知られていない都濃神社です。


日向國一之宮 都農神社 大己貴命(別名 : 大国主命)


ご覧の通り日向国一の宮は霧島神宮でもなければ鹿児島神宮でもなければ宮崎神宮でもなく、日向市の南の都農町というあまり知られていない町に鎮座する都濃神社なのです。

ただ、堂々たる境内地を持ち10号線に隣接している事もあってか、最近は道の駅を併設させ、参拝者が急増中の堂々たる大社なのです。

これを知れば、高千穂神話など皆さんの神社に対する常識がかなり覆されたのではないでしょうか?

日向国一宮 都農神社で「石持ち神事」も確認しておきましょう。これらは筑豊地方などでも顕著で、消されたとしても大国主命が存在した事を判断するメルクマールとしています。

古代日向国を優先し肥後熊本を素通りしましたが、熊本市の西の西里駅(JR鹿児島本線)付近にもかなりの境内地を持つ大国主神社があります。

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川東大巳貴神社  熊本市北区和泉町川東


この外にも熊本県山鹿市の志々岐阿蘇神社の主祭神は大国主命だったのではないかと推定できる痕跡が残されていますし、水俣市湯ノ鶴温泉の主神は大国主命なのです。

この地域は薩摩と肥後との国境線に近い所であり、どうも大国主命を奉斎する勢力とは古代日向国の人々だったのではないのかという疑問が湧いてくるのです。

蛇足になりますが、鹿児島市の中心地いずろ大通りの一角にも大国主命を祀る社があります。

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大國主神社 (鹿児島県鹿児島市金生町7)


“熊本県山鹿市の志々岐阿蘇神社の主祭神は大国主命だったのではないかと推定できる痕跡が残されていますし”と前述しました。話が前後しますがご紹介しましょう。

特に衝撃的に思えたのは、山鹿市の志々岐神社(実態は北部九州に多い志々伎神社が阿蘇系に覆いかぶさられた志々伎阿蘇神社)境内に隣坐する諏訪神社と八坂神社の裏にあまりにも大きな大国主命の石塔を見た時でした。

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大国主の横に一宮の神額が置かれていましたが、かつてはこの神社が一宮だったという訳なのでしょうか裏には大国様が置かれていました。


出雲に疑問を抱いたのは何故かと言われれば、まず、一般的に出雲系と言われる神社(祇園神社、諏訪神社、熊野神社、八坂神社、南方神社…)があまりにも多過ぎるからでした。

一般的に背後に置かれた神様が一番偉く地域の支配者となります。どうも旧志々岐村の一の宮は大国主命だったように見えるのです。

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もう一つご紹介しましょう。

福岡県宗像市の東隣に岡垣町がありますが、そこに手野という集落があり、何故か大国主神社があります。

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“宗像の主神は大国主命である”と教えてくれたのも百嶋 由一郎氏でした。

宗像大社の隣だけにどうしても関連を考えてしまいます。

このように九州島には多くの大国主命祭祀が存在している事は分かって頂けたと思います。


次回004号では、百嶋由一郎氏が残した手書きデータをご紹介し、大国主命が幼少期を九州で過ごした痕跡をご紹介したいと思います。

posted by 奈東南雄 at 00:05| Comment(0) | 日記

2021年04月21日

002 大国主命の子とされる建御名方を百嶋由一郎神代系譜ではどう見ているか?

002 大国主命の子とされる建御名方を百嶋由一郎神代系譜ではどう見ているか?

20210216

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄


 百嶋由一郎氏は著書を残されませんでした。

 それは、表に上げられない神社の本当の歴史、本当の祭神を探るには出版しないと約束しなければ神社側から正しい情報つまりその神社の本質が得られなかったからです。

 その点、神社の宣伝のためのガイド・ブックを作成するような研究者というより売文屋や神社庁に奉仕し通説(別に神社庁は国の機関でもなければ行政組織の一部でもなくそもそも通説などないのですが)を流布させるために宣伝する工作機関とも言うべき洗脳、調教のためのライターとは全く異なり、師は唯一、神社の真相、深層を求め、最後まで清貧な生活を続けられたのでした。

 当然、そこに書かれた内容は驚くべきものであり、全く異なる神代〜古代史像が浮かび上がってきます。 

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百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


 先生が死ぬ間際に残された最後の神代系譜は非常に見やすくかつ分かり易いもので、まずはこの系図をある程度理解できれば、神代史の捏造が自然と浮かび上がってきます。ただ理解するには月日を要します。

 そこで、建御名方を描いた系譜を幾つかお見せしますが、意外と大国主命からはかなり離れた別系統の人物、具体的には阿蘇高森の草部吉見ノヒコヤイミミの血を引いた人物であった事が見えてきます。

 と言ってもそれは百嶋研究によるものであり、その点は通説の系譜を信じ込んでおられる方にとっては、何の根拠もないものと一笑に付される程度のものでしかないのです。

 ただ、では通説の根拠となっているものはと言えば、「記」「紀」とこれらを基に書かれたエピゴーネンによる文書を基礎に書かれたものに過ぎないのであり、その点は何を信じているか?だけの差となるのです。つまり自ら天に唾した話になるのであって、逆にあなたは何も調べずに現地も踏まずに非難されているのですかとお返しする事になるのです。ではご覧ください。

 ナガスネヒコの叛乱によりその妹のオキツヨソ足姫は草部吉見の妃として生き延びることになります。

 その子、天足彦(彦坐王=ヒコイマスオウ)の弟が建御名方なのです。

天足彦が彦山東麓にいたと思われる事から建御名方も恐らくその南麓周辺の筑豊にいたはずなのです。

 その意味では筑豊では珍しい添田町の諏訪神社が俄然重要に思えてきます。それはまたの機会にします。

さて、百嶋由一郎最終神代系譜をご覧頂きましょう。

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これを見ると驚く事に物部氏側のウマシマジの義理の弟となっている事が見えてきます。

 それは黒○で囲った縦の二重線は姻戚関係を表す横の二重線と同様に、血脈は繋がっていないものの、通上の姻族になっている事を示しているのです。勿論、百嶋研究の結果を解析しているだけですが。

 つまり、建御名方は草部吉見=阿蘇氏=後の藤原氏の一派から離れ、物部氏側に移行した事を示しているのです。要するに海幸山幸の対抗関係がここにも反映されているのです。

 一方、大国主命の長男とされる(勿論息子ですらないのです)事代主は魚釣りに興じて、国譲りの強要をいとも簡単に受け入れてしまいます。この事代主の素性を示す系譜も百島研究の中にはほとんど出て来ません。ただ、彼は古古代ヘブライ系の人物であり、最も古い渡来系氏族の後裔だったといった事を話されていました。このため、百嶋由一郎最終神代系譜の中にも彼の素性を示すものは僅かしかないのです。

 事代主の両親を示す情報はないのでしょう。ただ、草部吉見と市杵島姫との間に生れた大山咋とヤタガラスの子鴨玉依姫の間に生まれた活玉依姫(後の神武僭称贈る崇神天皇の姉)をお妃としているのですからかなり有力な人物であった事だけは間違いないと考えられます。まあ、商売人だったのでしょう。 

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もう一つ、我々の内部で通常「金神神代系譜」と呼んでいるものがあります。

 これは図表の一部に金神様が描かれているからそう呼んでいるのですが、これにも事代主命が登場します。

 どうやら彼には二人の子がいたようで、兄が若筒木迦邇米雷王と弟が息長宿禰王と書かれています。

 この息長宿禰王は神功皇后の父神になる人物で殆ど知られていませんが、佐賀県佐賀市にある北山ダムに沈んだ集落に在ったものが二度移設され、現在佐賀市三瀬の杠地区に野波神社、下ノ宮としてお妃葛城高額媛(神功皇后の母神)にひっそりと祀られています。

当会でも何度か現地トレッキングを行なっており、メンバーによるブログも複数公開されていますので興味をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。

神功皇后も滋賀県の出身などではないのです。それは、皇后の両親を祀る神社などないのであって、佐賀県の山奥に今も強烈な印象を残し異彩を放っている以上、皇后は佐賀県の山内で産まれているのです。

 つまり、神功皇后は建御名方の血を引く一族だったことになるのです。

 これについて詳しい情報を必要とされる方は、 野波神社 神功皇后の両親を祀る 下ノ宮 などで検索して下さい。

 さて、これから今まで聴いた事のない

建御名方の長男にあたる若筒木迦邇米雷王を探って見ましょう。


山代之大筒木真若王 山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ、生没年不詳)は、『古事記』に伝える古墳時代の皇族(王族)。『古事記』によれば、父は彦坐王(ひこいますのみこ)で、母は袁祁都比売命(おけつひめのみこと)。同母弟に比古意須王(ひこおすのみこ)、伊理泥王(いりねのみこ)がいる。また、開化天皇の孫、神功皇后の曽祖父に当たる。王は伊理泥王の女・丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)を妃とし、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)を儲けた。子はほかに但馬国造の祖船穂足尼(『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば彦坐王の五世孫)。

王の名は地名に由来しており、『和名類聚抄』に「山城国綴喜郡綴喜、豆々木」(現在の京田辺市普賢寺付近)と見える。なお、同市は市制施行前まで綴喜郡田辺町であった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210217 15:16


迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ、生没年不詳)は、『古事記』に伝える古墳時代の皇族(王族)。稚筒城王(『帝王系図』)・若角城命とも。『古事記』によれば、父は山代之大筒木真若王で、母は伊理泥王の女・丹波能阿治佐波毘売(たにわのあじさわびめ)。また、彦坐王の孫、すなわち開化天皇の曾孫に当たる。外祖父の伊理泥王は山代之大筒木真若王の同母弟ゆえ、父と母は伯父・姪の続柄になる。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 05:39 UTC 版 20210217 15:35


 どうやら建御名方にはナガスネヒコの叛乱によって神武の軍門に降った怨念、続く大国主命の国譲りによって高木大神と草部吉見=ヒコヤイミミの本拠地であった彦山南北にあたる朝倉郡と筑豊一帯の豊穣の地を奪われた二重の怨念を引きずりつつ一生をおもわせるのです。


次回003号では、九州島に如何に大国主命を祀る神社が多いかをご紹介する事にしたいと思います。

posted by 奈東南雄 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年04月14日

001 大国主命の子とされる建御名方を祀る神社の分布から

001 大国主命の子とされる建御名方を祀る神社の分布から

20210215

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄


まずは簡単な話から始めその後に神代史の隠された世界をお知らせしたいと考えています。始めに分かり易い大国主命の次男とされる(勿論、子でさえありません)建御名方命を祀る神社の分布から考えます。 

この分布だけからもある程度の貴重なてがかりが得られるのです。

鹿児島県には諏訪神社と南方神社という大量の神社群が存在します。事実、鹿児島市上福元町6300には諏訪南方神社なるものも存在しており、南方神社と諏訪神社が同じ神社であることも暗示しています。

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対した武闘派とされる建御名方命に関わる物であることを理解するのにあまり時間は必要ありません。

 グーグルで調べればかなりの分布が確認できますが、一度に画面には反映されないものもあり、実際に拾い出しを行なえば、この数倍の規模で存在しているものと考えて良さそうです。

 一方、良く知られている信州諏訪の諏訪神社に相当するものも多数存在しています。

これらは島津家が好んで奉斎したという背景がある様ですが、何もない所に落下傘的な神が降臨するとは考えにくい為、元々何らかの祭祀(もしかしたら建御名方)が存在しており、それに諏訪大社からの更なる勧請が加えられたと考える価値はあると思います。

代表的な南方神社として、ここでは鹿児島県枕崎市鹿篭麓町398 から一部をご紹介します。


全国でも珍しい並列鳥居の神社。島津氏久により現鎮座に勧請され、島津家累代により崇敬された。御祭神は古事記にも登場する狩猟・農耕の神健御名方神と女神・八坂刀売神。この二神にまつわる御神渡(おみわたり)の伝説など、並列するふたつの鳥居は男女を表すとも言われている。 同社HP


紛れもない諏訪の神様であり、御名方神と女神と八坂刀売神を祀る神社が図表に出ないものも合わせると大量に存在しているのです。長野県、島根県以上の数で存在している事は間違いないはずなのです。

それどころか、我々は大国主命が九州の人であった…という話にまで繋げたいのですが、始めは全く理解して頂けないはずですので、まずは、こういった断片的な話から説明させて頂きたいのです。


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祭神 建御名方神(タケミナカタノカミ)八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)


文安元年、島津氏族伊集院ひろ久が、宇敷山(加世田市境)山頂の諏訪社を現在地へ遷した。この時、御神体を山下門の氏子が背負い、途中休憩したと言われる木口屋には、諏訪平、鳥居迫の字名を残している。上社に建御名方命を下社に事代主命を奉祭祀し、諏訪神社と称し、鳥居が二基並立しているのが特色である。明治五年、県から神官本田出羽守が臨検し、事代主命に代えて八坂刀売命を祭らしめ、南方神社と改めた。明治四十二年、大山積神社(昭和二十一年復活)、立神神社、津留神社(熊野権現宮)、木原神社を合祀した。現在の社殿は、本殿が明治六年、拝殿が昭和六年改築のものである。昭和六年の改築は、在京実業家児玉益彦氏の寄贈(五、〇四一円三八銭)により、ほかに氏子の労力奉仕、延べ一、五五〇人を要した。また、大正十四年完成の参道の石段も、児玉氏の寄付金によるものである。

寛永四年喜入忠高公は紀州の淡島神社を境内に勧請した。御祭神の少毘古那神は病気平癒の神様として知られ、遠方からの参拝者もある。総社でもあるので、他に菅原神社、稲荷社、水神社等境内社が多い。南方神社石段の右側には、坊津一乗院の末寺で真言宗の宝寿山神護院満願寺(寺料十七石)があり、諏訪神社の別当寺で領主喜入家の祈願寺でもあったが、廃仏令により廃寺となった。

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実のところ大隅半島の東南部は際立っていますが、この一帯は元々人口の集積地とは言えないようで単純には判断できません。

ただ、曾於市、志布志市も23社ほどで分布の空白地帯とはなっています。

隣の宮崎県にもこの神社はかなりの数が拾えます。ただ、南方神社は少なく諏訪神社での分布が多くなっています。

宮崎県えびの市西長江浦700にある同系統の神社は ここでも、南方神社(飛諏訪神社)と両方の名で呼ばれています。

宮崎県は山深い土地が多く、当然にも人口が薄い地域がかなりありますので、一概には言えないのですが、西都原古墳群で知られる西都市の西部の東米良から同市への編入を避けた西米良村一帯も諏訪神社が存在せずもう一つの空白地帯となっています。

これについては一つの仮説を持っていますが、今後のブログで展開したいと考えています。

今回、九州島での分布を考え撒いたが、勿論、長野県から山梨県を経て群馬県、埼玉県、栃木県、千葉県…へと同社の相当の分布がある事は承知のうえで話をしています。

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さて、諏訪神社と聞けば 長崎くんち の中心を成す諏訪神社が有名ですね。

  この期間の人出があまりにも大きいため地元長崎の人も海外旅行に逃げ出す方が多かったという話も良く聴きました。それほど諏訪神社が如何に崇敬の対象であったかが良く分かります。

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一方、熊本県にもそこそこの数の諏訪神社がありますが、そこは通過点であって、我々にはさらに安全な薩摩に向かって落ちたように見えるのです。

 良く島津の一族が奉斎したから信州諏訪から勧請されたと言われる方がおられますが、何もない所に落下傘的な神を持ち込んでも、おいそれとは民衆は受け入れるものではなく、何らかの下地となる建御名方信仰が存在し、後に正式に信州諏訪から正式に勧請されたものと考えるべきなのです。

 そうではないと言われる方がおられるのであれば是非とも合理的な説明を頂きたいと思うものです。

 島津は鎌倉政権以降の下向氏族との話がありますが、元々の故地に赴任した可能性もあり、判断は難しいとされています。

 ただこの密集度から考えると、一つの可能性としてもしかしたら建御名方の後裔氏族である可能性はあるのかも知れません。

 事実、百嶋先生は島津の素性は東霧島神社を見れば分かると言われていました。今後の課題です。

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ほとんど知られてはいませんが人口に比して諏訪神社が多いのが佐賀県でご覧の通りです。

佐賀県では、「お諏訪さん」との愛称で知られており、福岡県の筑後地方と併せてかなり多くの同系統の神社が集中しています。佐賀県は建御名方の勢力がかなりの数逃げ込んだのではないかと考えています。

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一方、人口に比対して極端に少ないのが筑豊から豊前に掛けての一帯です。

逆にこの空白地帯こそ、消された本来の本願地であり支配的領域ではなかったのかとの思いが馳せます。

直方市、中間市、宗像市、飯塚市、田川市、行橋市、みやこ町、香春町、川崎町、添田町…と多くの田川郡の町が続きます。

百島先生は良く「皆さん大国主命を出雲の人であると勘違いなさっています」と言われていました。

これらの事から筑豊の縁にあたる 田川郡添田町中元寺1461  の諏訪神社が彦山直下だけに重視しています。 恐らくこの一帯こそが本来の諏訪神の本拠地であったはずで、今や歴史の闇に消されているのです。敗残し逃亡した先が信州諏訪であり、あるいは、九州の南部だったとしか私には理解できないのです。 

特に重要なのは古代日向の領域で、敗残し逃亡した建御名方の一族のかなりの部分が南に向かったのですはないでしょうか。分布だけから言えば、そうとしか考えられないのです。

 今回はここまでとします。以後、大国主命の出自、お妃のお二人、活動領域、国譲りの現場、奪った勢力が誰だったのか?そういった問題に足を踏み入れて行こうと考えています。

 まずは、建御名方命の問題から始めましたが、大国主命とは何なのかという深刻な問題に徐々にメスを入れて行きたいと考えています。次回は建御名方命の出自について考えることにします。ご期待ください。

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中々立派な縁起ですが読めないでしょう検索の上ご覧下さい非常に興味深い話が書かれています

posted by 奈東南雄 at 23:25| Comment(0) | 日記