百嶋神社考古学研究会通算 060 「鳥海」地名を探る…安倍宗任と「鳥海」➀
ひぼろぎ逍遥遥(跡宮)A1140 「鳥海」地名を探る…安倍宗任と「鳥海」20260131
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久 から

山形〜秋田へと広がる鳥海山
二県五市に跨る中近世を対象とした旧「松浦党研究連合会」の解散に伴い、新たな活動を開始した独立系の研究会にお誘いを受けたのは2025年の夏でしたが、既に三回目の研究会が開催されようとしています。今後、どのような発展を遂げるか期待しているところです。
三回目の講演にお呼びしたのは前九年の合戦によって滅んだ東北の安倍氏の流れを汲む、安部の宗任34代安倍貞隆氏(大分市在住)です。
2月21日(土)に伊万里市の生涯学習センターで古代のルーツを知る会主催でご講演頂く予定で
す。
そこで、安倍さんの紹介をして頂きたいとの依頼を受けたことからお引き受けしたのですが、短い講演時間を削る訳には行きませんので、ご紹介は文面で配布させて頂こうと書いたのが前ブログでした。そこで、とりあげたエピソードを改めて掲載しておきます。以下。
初めて貞隆さんにお会いした時にも出た話ですが、私も関心を持っていたテーマですのでご紹介したいと思います。
弟の宗任(鳥海三郎)と前述しました。
安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期から後期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子(三男)。鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。安倍氏の本拠地である鳥海柵の主であり、嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察する説もある。 「安倍宗任」で検索したウィキペディア20260131 11:53 による
俘囚の長なるふざけた表現は、民俗学者の谷川健一(直接聴いてます)も含めよく耳にしますが、
佐賀県の伊万里から武雄の中心に移動されるとして山内町を通ると、JR佐世保線の永尾駅の正面にも「鳥海」(トノミ)という地区が在る事をご存じの方は居られると思います。
東から鳥海川が流れ込み、舟原地区から流れ込む西からの河川と合流し昔から沼沢地が存在していただろうことは一目で、大雨が降れば海に成る事を昔は良く見ていました。
恐らく、古代には多くの水鳥の棲みついた沼だった事でしょう。この鳥海川は数キロ降ると、西
の青螺山を源流とする松浦川と武雄市武内町辺りで合流し唐津湾に注いでいるのです。
安倍宗任もそのような沼沢地に近い河川合流地を拠点にしていたと思うのです。
この「鳥海」という地名や屋号など全国にも散見されますが、一番有名なのが帝国海軍の重巡「鳥海」の元となった鳥海山の秋田、山形ですが、かつては実際に秋田県にも鳥海町もあったのです。
私がこれも同じだと思っているものに、チューリップで有名な富山県の砺波平野(現砺波市)で
す。「ナ」と「ノ」は全く違うと反論がきそうですが、ナも所有の格助詞で、「そこなおなご帯を解け…」(TVドラマ「水戸黄門」)とは悪代官などがしばらく前まで使っていた普通の言葉なのです。
古くは、「マナコ」、「タナゴコロ」、「川タナゴ」(昔は田んぼの用水路にたくさんいたものです)…と普通に使われていた言葉なのです。まあ、本題から逸れ過ぎましたのでここで止めておきます。
では安倍一族とは何なのか…(俗称「金神神代系譜」部分から)
百嶋神社考古学を根幹とする当グループとしては、以前から大彦の流れで久留米の高良大社の高良玉垂命の腹違いの兄の一族であるとしています。以上引用終了。
鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。は、「安倍宗任」で検索したウィキペディア20260131 11:53 によるものでしたが、「鳥海弥三郎宗任」とも呼ばれているのです。
鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。
鳥海山の号は国史に見る所なし。和論語に鳥海山大明神と出づ。三代実録には飽海の山とありて山名を記さず。(大日本地名辞書)
和論語が作られたのは、丁度頼朝の時代で、鳥海の山名はこの時までには、すでに一般から呼
ばれていたと思われる。
この山について変遷を考えると、古くは大物忌の神山、北山、飽海の山とか呼ばれていたようで、鳥海と呼んだのはその後のことであった。飽海の山というのは、由利郡にはまだ設置されず、飽海郡内の山であったからそのように呼ばれたのであるが、後世長く呼ばれた鳥海の山名は、どうしてできたのであろうか。結論からすると、安倍氏の全盛時代安倍宗任(むねとう)の所領がこの方面にあったことによるものとするのである。なぜかといえば安倍宗任を鳥海弥三郎宗任※と称したことである。そのわけを調べると、宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の誕生地であるところから、その生地にちなんで鳥海弥三郎と称したと推定される。
による
第八代天皇である孝元天皇の第一皇子であり、日本書紀では「大彦命」、古事記では「大毘古命」と表記されている。日本列島の四つの地域に派遣された『四道将軍』の一人で、彼は北陸に派遣されたという。また、大彦はかの有名な陰陽師である安倍晴明を輩出している一族の「阿倍臣(後の安倍氏)」を始めとした諸氏族の祖とされている。![]()
私達は通説派とは全く異なりますので、四道将軍は、高良玉垂命と神功皇后の指揮下で臣下の崇神=ハツクニシラススメラミコト(この男は天皇でもなんでもない)が、大彦(日本海航路)と共に崇神の息子が会津で出会ったから会津と言う…という日本書紀の記述と成っているのです。日本書紀は阿蘇氏の一派の末裔である藤原が創りでかした話なのです。
ともあれ、日本海ルートで北上した結果、秋田、山形に鳥海地名が在る事は納得も行くのです。 その後も、九州王朝系の人々が何派にも亘り東北の開拓に入っている可能性が有るのです。
それが岩手の菊池、菊地姓であり、これまた、帝国海軍の軽巡洋艦の阿武隈ですが、二等巡洋艦は
通常、川の名から取られたのです。当然にも福島県宮城県に流れる北上川に次ぐ東北で二番の川で
ある阿武隈川という地名にも現れているのです。正に安倍氏の住んで居た隈(雑餉隈など九州限定
の地名が東北に飛んでいる事からも大彦は九州から移動した氏族の一員だった)なのです。
そして、この阿武隈川の河口にも鳥海が在るのです。


さて、ここから「鳥海」地名を拾ってみましょう
佐賀県武雄市山内町鳥海は別稿としますが、南の茨城県からサンプリングを始めることにします。
❶ 茨城県 企業名、店名では確認できますが、市町村名、字名…は確認できません
❷ 福島県 福島県大沼郡三島町大登に「鳥海館跡」が確認できます。

「日本書紀」の四道将軍による合流により会津と言う…に大彦の末裔としての宗任に関連する「鳥海」地名が確認できることから、会津へのルートは、安倍宗任に関連する「鳥海」地名の存在はやはり柏崎刈羽から上陸した安倍氏が魚沼郡を経由し沼沢湖畔の金山町から猪苗代湖の会津に入っている様に見えますね。因みに金山町と会津若松間の距離は60キロ程度です。
❸ 秋田県由利本荘市に鳥海町が在りました。
由利本荘市は、秋田県の南西部にある市。2005年3月に本荘市、由利郡矢島町、岩城町、由利町、西目町、鳥海町、東由利町、大内町が合併し誕生した。
歴史・沿革……近世の藩領制において、秋田県の大部分が秋田(佐竹)藩であったのに対し、由利郡は、亀田藩、本荘藩、矢島藩、仁賀保氏領、幕府領に分かれ、鳥海町は、北に隣接する矢島町、東由利町とともに矢島藩に属していました。矢島町が武家、町人の居住地域であったのに対し、鳥海町、東由利町はそれを取り囲む農村部の位置づけになります。鳥海町は、昭和30年(1955年)に川内村、直根(ひたね)村、笹子(じねご)村の3村が合併して鳥海村となり、昭和55年(1980年)に町制を施行して現在に至っています。町役場、中学校のある川内地区、鳥海山麓の直根地区は矢島、本荘方面との結びつきが強く、一方の笹子地区は東に接する雄勝郡羽後町、湯沢市方面との交流が盛んです。
これについては、南の鳥海山起源で付された町名の様です。起源としては浅いようです。
❹ 岩手県一関市大東町鳥海 この南西には平泉がありますね

❺ 青森県平川市沖館

これも後発の名称と言うだけで、直接的に宗任とはかんけいは無いようです。
何れにせよ、これだけで何かが分かると言った事にはならないでしょう。
❻ 山形県鳥海山
どなたもご存じの鳥海山
鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん)は、山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活火山。山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。秋田県では秋田富士(あきたふじ)、山形県では庄内富士(しょうないふじ)とも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。鳥海国定公園に属する。日本百名山・日本百景の一つ。2007年(平成19年)に日本の地質百選に選定された。2009年(平成21年)に国史跡「鳥海山」として指定された。
による
何故、鳥見山と呼ぶかを探っていましたが分かりません。一応、「トリミヤマ」と呼ばれていたとは出て来ましたが、山頂の湖を鳥海湖と呼んでいるからではもちろんないでしょう。
山頂の湖に大量の水鳥が棲みついているとも思えないため、やはり裾野の沼沢地(池)が語源だろうと考えてしまいます。
ただ、東北一帯に分布する「鳥海地名」が、西日本の中でも孤立して佐賀県の一画に存在するのかも良く理解できません。
以下の想像は余り分かって頂けないとは思うのですが、少し頭に過る事があるのです。
ひねり出した様な話ではあるのですが、東北の安倍氏は大彦の末裔と言うのは通説でも理解できる話であって、日本海ルートを北上した四道将軍の一人が大彦とすると、
四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。
ウィキペディア20260201 17:24による
勿論、通説とは異なりますが、百嶋神社考古学の立場からは、北陸道は大彦(具体的には高良玉垂命の腹違いの兄で武内宿祢の実兄)百嶋由一郎金神系譜=安部氏、山陽道は吉備津彦命(孝霊天皇とハイイロネの間に生れた桃太郎)百嶋由一郎最終神代系譜、東海道は彦坐王=天足彦(名目的には開化天皇=久留米の高良玉垂命の子であり実態は草部吉見と自らが滅ぼした長髄彦の妹武内足尼の間に生れた子)、丹波国は丹波道主(伊勢の外宮様と草部吉見の間に生れた息長水依姫と彦坐王=天足彦の実子)詳しくは神代系譜参照の事。

東海道を武渟川別命(タケヌナカワワケノミコト)が進軍したとするのですが、この人物はナガスネヒコの乱を鎮圧した実行部隊で妹を妃にしているのです。百嶋は名目的には開化の子としているとしていました。その意味は、保障として開化が世話をしたのではないかと考えています。

百嶋由一郎金神神代系譜(部分)
重要な点は、藤原が第9代とした開化天皇とは呉の太白の血を引く福岡県久留米市の高良大社にいた高良玉垂命で大彦の本拠地も大分県大分市です。彦坐王も福岡県東部の彦山北麓辺り、丹波道主も博多の櫛田神社の交易拠点で京丹後市には日本海側最大の前方後円墳が存在しているのです。
このように、全て九州から進軍しているのであり、通説派は畿内から四方に送り込んだように説明しているのです。
まあ、この通説派の話は為にするだけのものですからここまでとして、要は九州から進軍しているとすると、「鳥海」地名が佐賀県に在る事が意味を持つのです。
それは、神功皇后の三韓征伐問題でも気付いていたのですが、それは、この佐賀県武雄市山内町から松浦川が流れ唐津湾に注いでいるのです。
人口は有明海側に集中しており、玄界灘側には今でも農耕地(水田)が少なく、兵員、資財、糧秣の輸送を考えると、ここほど便利な場所は無いのです。
松浦川には現在でもダム、取水堰、河口堰が存在せず、周辺の木材を伐採し筏さえ組めば、半日、休憩を入れても一昼夜あれば容易に輸送が可能なのです。
この佐賀県の「鳥海」辺りは標高80m程度で、武雄市中心部から西5キロ程までは舟でも移動でき、そこから80メートル登り物資を運べば、一気に玄界灘側の唐津に送りだすことが可能なので、日本海側を進軍したのが大彦=安倍氏とすると、この補給廠(基地)とも言うべき土地を知っていた可能性があるのです。

美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は、福岡県朝倉市林田にある神社。
祭神 今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された。皇后はこのことを秘し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船・軍器を整え、神々を祭って日本最初の外征に肥前名護屋から出征していった。皇后は航海中船中で素戔嗚尊・大己貴命・事代主命の3神に戦勝を祈願された。
海
上つつがなく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれた。戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗・百済も来貢し、肥前・高橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られた。その神が美奈宜神社の3神である。ウィキペディア(20180125 10:12)による
朝倉市にはミナギ神社と呼ばれるものが二つあります。
福岡県朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社
一つは、朝倉市荷原2421(旧三奈木村)の 美奈宜神社で、もう一つは、今回、取り上げる朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社です。
「…戦いは連勝し三ケ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された。…」と、書かれていたのです。
…神功皇后新羅御討征ノ折船中ニ於いて大己貴命、素サ鳴命、事代主命ノ三神ニ勝軍ノ始要ヲ折ラレ異賊ヲ討チ肥前国杵島郡高橋ノ津ニ帰還東上ノ途中、宮ヲ造リ三神ヲ祭リ給フ。…(同社御由緒)
083 朝倉市林田の美奈宜神社社伝に驚いた! “神功皇后は肥前の高橋津に上陸し武雄(柄崎)温泉で湯浴みした”
つまり、神功皇后はおろか開化天皇さえ(欠史8代)消し去ろうとする通説派(畿内説論者)は
神功皇后の三韓征伐から有明海側への凱旋など絶対に否定したかったのです。
その意味では、林田の美奈宜神社社伝は真実を伝えているのです。
一方、朝倉市荷原2421(旧三奈木村)の 美奈宜神社は、日田の大原八幡宮の宮司家(大蔵氏=後漢霊帝の後裔阿智王の一族)が後に入っているため、由緒が全く異なるのです。
これについては長く成るため別稿とします。


それはともかく、トンネルは貫通しており、年度内には仕上がる事になるのではと思っています。
さて、今回は公共工事の話をするつもりは有りません。








この間、

一方、大彦の後裔が安倍氏であり、本願地を大分市に置いていたという事は間違いないと考えていますが、間組、間建設のルーツも、もしかしたら現由布市の狭間町に盤踞した狭間氏だったら面白いと考えた訳です。
かは不明です。間猛馬氏が元は土佐藩士と言われている事から柞原街道を抜け、臼杵、佐賀関、大分市に入り、北九州に入っているとすれば、狭間を知らなかったとは考え難く、阿部、安藤の一族も知っていたと思いますので、安倍氏と狭間氏とが隣接している関係も理解できる立場にあったと思うのです。改めて、トンネル工事の安藤とダム工事で知られる間組の合体は、勝手ながら古代を感じさせるかなり面白い話でした。 今やダムを造る場所が無くなっており、トンネル工事が主力にも成りつつ在りますが、老朽ダムの撤去、改修工事の需要も造られる事でしょう。拙著、「有明海異変」にも“税金のダム遣い”との一章を書きましたが…今後は自然を守る方向で技術を高めて欲しいものです。編集上、ここで切り、続編に繋ぐ事に致します。


内し



ここで、橘氏について分かり易い話を一つご紹介しますが、柑橘類の一つにスダチとカボスが在りますが、これも京都の下賀茂神社の賀茂族=加茂族=橘氏が運んできたトキジクの実の一つなのです。それは、スダチとは酢 橘で、カボスは鴨族、加茂族が持ち込んだ酢の意味なのです。
しているのです。



