百嶋神社考古学研究会通算 045
長野県の伊那谷の中川村に風三郎神社が存在する背景とは何か ? 20241128
新ひぼろぎ逍遥 1072 のビアヘロ234への転載
長野県の伊那谷の中川村に風三郎神社が存在する背景とは何か ?
20241128
太宰府地名研究会 古川 清久
今回、天竜川左岸に風三郎神社を見出しました。それが風神とも呼ばれた南阿蘇の草部吉見神社のヒコヤイ(ハエ)ミミの子の三郎神社の主=天忍日=新(ニュウ)彦=興ツ彦であることは明らかなのです。
ただ、現地で祭神とされているのは級津彦命・級長津姫命であり、その両親の草部吉見神と高木大神=高御産巣日神(造化三神の一人)の次女であった 栲幡千千姫とされているのです。
これから先は、現地で祭祀を行われている宮司様なり長野県神社庁なりの公式のデータで確認するしかないのですが、社名が風三郎神社となっている以上、三郎自身が現地を踏み支配的力を持っていた事は間違いがないはずです。これは、息子であった三郎かその一族が父の吉見を祀っている可能性もあり直ちに判断はできません。
ただ、南阿蘇から岐阜を経て進出した三郎が伊那谷に拠点を置いたことは間違いがないと思われるのです。

風三郎神社 カーナビ検索 長野県中川村大草黒牛
では、何故、天竜川流域にまでやってきたのでしょうか? 勿論、はっきりした根拠がある訳ではないのですが、唯一、頭に浮かぶことは、大国主命の芦原中津国の国譲りに伴い、建御名方命は諏訪に閉じ込められそこから出ないことを条件に助命されます。
この有名な故事は大半の読者はお分かりでしょうが、記紀を学ぶ機会を奪われた若い世代のためにも楽に理解できる、ネットから「古事記の神話」を引用させていただきます。
葦原中国の平定 国譲り神話
日本列島の支配を正当化? 国譲り神話は、天の国である高天原が、地上の国すなわち日本列島の支配権をオオクニヌシから受け継ぐという神話です。『古事記』『日本書記』などにみられますが、特に記・紀の中でこの神話が果たす役割はとても大きく、天皇家の日本列島支配の正当性を伝えています。この神話がないと、天孫降臨神話につながらず、神武東征に始まる天皇支配の正当性は説得力に欠けるものになります。
高天原の使者が次々にやって来た! 『古事記』をもとにして国譲り神話をみていくと、まず高天原からアメノホヒが使者として派遣されます。しかし、アメノホヒはオオクニヌシに取り込まれて3年経っても復命しませんでした。
そこでアメノワカヒコが弓と矢を授けられて地上へ降りますが、やはり8年経っても復命しませんでした。そこで、様子を見るため、鳴女(ナナキメ)と呼ばれる雉を遣わしましたが、アメノワカヒコに射殺され、その矢は雉を抜いて高天原のアマテラス・タカミムスヒのところまで届きました。タカミムスヒがその矢を投げ返すとアメノカワヒコの胸に刺さり、死んでしまいました。
その後、タケミカヅチとアメノトリフネが派遣されて、伊耶佐(いざさ)の小浜(稲佐浜)に降りました。タケミカヅチは十拳剣(とつかのつるぎ)を波頭にさかさまに立て、その剣先にどっかとあぐらをかいてオオクニヌシに国譲りを迫りました。オオクニヌシは「年老いた自分の一存では決められません」と、わが子であるコトシロヌシに判断を委ねます。
≫<第一章>アメノホヒの派遣を詳しく読む ≫<第ニ章>アメノワカヒコの死を詳しく読む
出雲大社はこうして造られた
コトシロヌシが国譲りに同意すると、「もう一人の子どもであるタケミナカタにも聞いてほしい」と、言いました。タケミナカタはすぐには賛成せず、「力比べで勝負してきめよう」と、タケミカヅチに挑みますが、敗れて逃げ出し、信濃の諏訪湖で追い詰められてついに国譲りに同意しました。 二人の子どもが同意したのを知り、オオクニヌシもついに国譲りを受け入れ、「その代わりに、私の神殿を皇孫が天つ日継ぎを受け、統治する立派な宮殿と同じくらい立派なものにしてください」と望みます。願いはかなえられ、多芸志の小浜に大きな神殿が造られました。これが出雲大社の起源です。そしてオオクニヌシは、そこに鎮座してコトシロヌシにやはり自分の子である百八十神を統率させました。
ただ、我が百嶋神社考古学では、所謂、「出雲の国譲り」は彦山(当時、草部吉見は高木大神の娘を妃とし、大国主命と建御名方の開拓した国を勝手に取り上げたという意味で、神代の三悪人と考えます(私だけかもしれませんが)。高御産巣日神=高木大神、天照大御神、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命=草部吉見=タケミカヅチ)の次の拠点となった彦山の南北、つまり福岡県の朝倉郡と田川郡一帯で起きた出来事で、大国主命が追放されたのが出雲であったと考えています。詳しくは以下をご確認下さい。
ひぼろぎ逍遥(跡宮) ビアヘロ179 5回も追加実施した“出雲の国譲りは旧朝倉郡で起こった”トレッキング(上) ビアヘロ180 5回も追加実施した“出雲の国譲りは旧朝倉郡で起こった”トレッキング(下) ひぼろぎ逍遥 177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも |

話を換えます。皆さんは、盛大に行われる長崎供日(くんち)を御存じだと思います。全国的にも良く報道される大祭で、夜には道路いっぱいに引き回される精霊流しの精霊船がハイライトになりますが、中国服に身を固めた龍踊り(ジャオドリ)が舞われるのが、その祭の氏神様が鎮座するのが「諏訪神社」なのです。毎年10月7日から3日間、町を挙げて催されます。その祭の規模と熱気は正に九州一と言えば語弊がありますが、実感からはそのとおりになるのです。

長崎に諏訪神社があるのかと思われる方もおられるでしょうが、以下をご覧ください。勿論、全部を出しているものではありません。西の佐賀県、長崎県にも諏訪神社は多く、尊崇と敬愛の念を込めてお諏訪さんと呼ばれているのです。

さて、福岡県でも驚くべきことにその分布に空白があるのですが、前述した彦山の南北の朝倉郡、田川郡です。この一帯から諏訪神社が消え、代わりに高木神社or彦山48大宮司社に置き換わっているのです。佐賀県、長崎県にも諏訪神社がかなりありますが、次の鹿児島県の諏訪神社をご覧になれば、さらに驚かれるでしょう。
彦山の北に一社あるのですが、当会の神社トレッキングでも参拝した添田町の諏訪神社で、ここには大国主命の配下で開発、国造りを行っていたが奪われたと書かれた由緒が残されています。
多分、暴走を抑えるために残された管理者としての神社と考えられるのです。この由緒を観て以降、彦山に拠点を置いた高木大神一派、神代の三悪人との思いを消せなくなってしまいました。私にとっては、それ以降、彦山は毛沢東、スターリン、周 近平 と同列に考える事しかできなくなったのでした。
高御産巣日神=高木大神、天照大御神、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命=草部吉見 天孫族 三悪人

高木大神、天照大御神、草部吉見の三悪人が奪ったのは古代出雲王国などと思わせたのは、天武王権滅亡後の近畿大和朝廷=藤原天皇制(草部吉見〜大山昨=日枝三王権現=佐田大神=松尾大神〜崇神天皇)こそが、天照を頂上に仰ぎ塚原卜伝が崇拝した鹿島大神=健甕槌を実力武装集団として列島の支配権を確立していった天孫族だったのです。
もうひとつお伝えしたい事があります。それが、南方神社が大量に分布する鹿児島県です。
同県には諏訪神社もありますが、それ以上に目立つのが南方神社つまり建御名方を主神として祀る神社群の存在です。国を奪われた建御名方の一族は、本人など中枢部だけが諏訪に向かい(連行とは思えないのですが)、大半の配下の民は本来の出身地であった古代日向などに逃れているのです。


これらの分布はもっと多く倍はあると考えています。これらについて、百嶋由一郎は、“建御名方は、クマ川(勿論、九州の人吉盆地から八代に注ぐ球磨川ですが)以南の統治を担当していました。◎南方”とのメモを残しておられます。それは、建御名方命の一族も、大山祇命配下のトルコ系匈奴(具体的には、東西分裂後の南北分裂によって派生した南匈奴=王昭君の一族=金海金氏だったからです…大山祇命の本拠地は古代日向つまり現在の鹿児島、宮崎県でも西都市、西都原第2古墳群に伝大山祇古墳があります…さらに付言すれば、大国主命も大山祇命の息子でカミムスビ系=博多の櫛田宮の主神に送り込まれた入婿なのです…その証拠に、日向市の南の都農町の都農神社=日向国一宮の表向きの主神は大国主命なのです…ちなみに二宮は高木大神のドラ息子ニニギに嫁いだ木花之佐久夜毘売で、出雲の人と思い込まされている大国主の妹)なのです。直ぐには理解できないと思われるでしょうが、大嘘がまかり通っていますのでご自分でお調べになってください。
ここから、もっと重要で分かり難い話に踏み込みましょう。ここまでくれば、建御名方命、お妃の八坂刀売が誰であり何処からやってきたかの話に踏み込みたいのです。既に、風三郎神社の主神は草部吉見としても、祀ったのはその高木大神系の息子の三郎で南阿蘇高森から入っていることはお伝えしましたので、やはり、九州から入っているのです。

上は、大山祇命の息子大国主命を主神として祀る都農神社 宮崎県児湯郡都農町川北13294
都農神社は、格式の高い「日向国一之宮(ひゅうがのくにいちのみや)」に位置付けられた神社。パワー・スポットとして名高く、鎮守の森に囲まれた広い境内には神秘的で厳かな雰囲気が漂っています。創建は神武天皇が初代天皇としてご即位される6年前。東遷の折、国土平安・海上平穏・武運長久を祈念してこの地に祭神を祀ったと伝えられています。祭神の大己貴命
(おおなむちのみこと・別名:大国主命)は、病気平癒、縁結び、子孫繁栄、商売繫盛の神。境内には願いを込めて納めると成就する「神の石神事」や、撫でるとありとあらゆる福をもたらす「撫で大国」、無病息災のご利益があるとされる「撫でうさぎ」など、ありがたいスポットがいっぱい!
これも同社境内参道脇に置かれた掲示板ですが、大国主命が出雲の人ではないないことが多少はお分かりになられたかと思います。その子とされた(これも誤りですが)事代主も建御名方も兄弟どころか、出雲でも諏訪の人ではないのです。事代主は神農系の古々代ヘブライ
だいぶ本題から離れましたが、通説があまりにも大嘘を流布させ過ぎており、多くをの説明が必要になるため話が複雑になるのです。簡単に言えば古代出雲大国などという大げさな表現は近畿大和朝廷が作りあげた幻想であって、「古事記」の95%は嘘…と言ったのも故)百嶋由一郎でした。
2〜30年前でしたか出雲大社正面の地中から三本の巨大な古材が発見され、NHKもこれこそ古代出雲王朝の巨大神殿の証拠と大騒ぎしたことがありましたが、それ自体は良いとしてもその後の理化学調査で、鎌倉初期前後のものと報告されているのですが、騒いだ連中は今も口を噤んでいるのです。このように古事記にだけある「出雲神話」とは当方に言わせれば、大和王権が九州王朝を隠すテーマ・パークのような偽装なのです。
さて、これでこれから話そうとしている事がもうお分かりになった方はおられると思いますが、建御名方の南科方進出を阻止するために送り込まれたのが、草部吉見とその一族と配下だったのではないかという仮説というか思考上の暴走になります。
そう考えた理由は、信州それも伊那谷の南の美濃国(岐阜県)の阿智村の性格に気づいたからでした。
この阿智村とは伊那市など天竜川が流れ降る、所謂、伊那谷と、恵那市など木曽川が流れ下る、所謂、木曽谷の間の山岳部に展開しているのです。
おかしな表現かも知れませんが、スイスの様な中立国家風のポジションを維持してきたのではないかと思えるのです。一方では近畿大和朝廷以来の南からの圧力と信州、甲斐の山岳勢力(諏訪神社に象徴される建御名方系)との間に入る意味も持っていたのかも知れません。
阿智村と言っても九州の方などには中々お判り頂けないと思いますので、詳細については、以下をお読み下さい。
新ひぼろぎ逍遥956〜958
岐阜県側から中央高速でも最も急傾斜で危険極まりない恵那トンネルを抜けると、岐阜県の最北部に近代的なホテル群が居並ぶ昼神温泉があります。その地が阿智村なのです。

この阿智村は国境の山村といった位置ですが、実際に入ってみると、大半の人家が密集していることから、高原地帯の近代的な中都市といった印象を受け、凡そ山間僻地とは思えない都市開発事業により出現した新興ニュー・タウンといったと印象さえ受けるのです。
この阿智村に進出した人々は、後漢の霊帝の後裔氏族で、一旦は九州でも肥後に入り、全国に展開していったのです。
この事にはっきり気づいたのは五〜六年前に阿智王の末裔で自分達は劉邦から100、101代にあたるもので、その一族には、田尻、原田、秋月、財津、笠(劉の置き換えですね)、坂上、大蔵…といったかなり大きな拡がりを持った人々の様なのです。その系譜と劉邦、霊帝、阿智王の廟を見てからの事でした。ただ、それ以前にも気づいていたのです。久留米地名研究会で活動中に久留米市に「笠」姓の中国風の一字姓の一族がかなりおられることに気づき、もしかしたら、「笠」姓は「劉」の置き換えではないかと思ったからでした。それ以前にも佐賀県東半部にも「龍」姓が在ることを知っており、熊本市の金峰山の南麓の某寺が、山田洋二監督の「男和つらいよ」はフーテンの寅の帝釈天の御前様の笠 智衆も漢族ではないかと考えていたからでした。
それが、阿智王の廟を造り、系譜を持たれていた建築会社の社長に出会い、その方も笠 智衆の寺の直ぐ下に本家をお持ちだったことから、一気に謎が解けたのでした。少なくも、この件については、一応、直感が当たっていたのでした。さて、今、気づいたのですが、「ウィキペディア」に書かれた七姓氏族に、多氏がいたのです。阿蘇氏は雲南省麗江に居た時も多氏を名乗っていたのです。「多」氏改め、「阿蘇」氏ですが、奈良に多神社が在ることは神社や古代史に詳しい方はお分かりでしょう。
後の藤原氏は草部吉見の後裔であり、阿智王の一族に随行している事とは良く符合します。

御前様こと 笠 智衆 はどう見ても肥後の人間ではない…と考えたのは阿蘇氏を念頭に置いて考えたからでした。これも一般的な偏見ですが、阿蘇の三千数百社の最大の神社群は500程度の阿蘇系神社ではなく、1300社近い菅原神社なのです。笠 智衆を劉邦の一族ではないかと考えた当時の15年程前までは、肥後には多くの民族集団が入っている事までは考えが追い付いていなかったのです。
朱氏も入っていますが、これも朱元璋の「朱」であり、高句麗の朱蒙(チュモン)の姓ですね。
ここで、その「ウィキペディア」を追加します。20241113 12:16 による
東漢氏 渡来集団として 『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人(中国から一七県の人々を率いて来日、のち天皇の命で呉(くれ)におもむき、織女、縫女を連れ帰ったという。後漢霊帝の曾孫[2])系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。東漢氏は集団の総称とされ、門脇禎二は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。また、門脇禎二によると半島系土着民が自ら権威を表すため東漢氏を名乗った場合がほとんどだという[3]。秦氏も同様に秦始皇の苗字は秦氏ではなく、弓月君が渡来した時期、秦国は数百年前に滅んでいる。弓月君は百済か新羅から渡来したが『魏志』東夷伝で「辰韓はその耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。」という耆老の間違った伝世によって中国から新羅はよく秦国の末裔と呼ばれ波多氏は秦氏を名乗るようになった[3]。
『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。
また『続日本紀』延暦4年(785年)6月条によれば、阿智王は七姓(朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人)と共に渡来した[4]。
また、『古事記』応神天皇の件に、「秦造の祖、漢直の祖、が渡来してきた」とある。
少し、枝葉に入り過ぎました。大国主系の戦闘的武装集団の頭目の部分を諏訪に閉じ込めたものの、琵琶湖、関ケ原、比叡山、伊吹山、伊勢、濃尾平野と列島の主要かつ中枢部にとって、山岳地帯に強力な武装集団が存在し続けることは大きな脅威だったと考えられます。
後漢末期の霊帝の時代になると、皇帝といえども帝位決定権も腐敗宦官(十常侍)どもに奪われ、ましてや、そのまた三世、四世ともなると、さしもの漢帝国も乱れに乱れ、辺境の半島の帯方郡辺りに避退せざるを得なかったのだと考えられます。そこで、勢い列島へと移住、亡命、進出せざるを得なくなっていたのだと考えられるのです。ただ、阿智村に阿智王の後裔氏族が配置されるのは、我々が考えるところの九州王朝(佃修説)の滅亡に直結していく時代のはずで、風三郎神社から推定される、草部吉見の次世代、三郎こと興ツ彦=新彦の時代は、まだ、九州王朝の時代だったように思えるのです。実質的には仁徳天皇(オオササギ=九州ではシレカシノミコト)による浪速高津の宮に移動より前の時代と考えています。天武朝も九州から奈良に移動しているようで(佃修説)広義の九州王朝ですが、長屋王木簡さえ無視するのです。ここでネット上から「阿知使主」、「阿知使主の謎」、「小春奈日和」、「新撰姓氏録』などでは、阿智王(阿知使主)は後漢の霊帝の ...」、まだありますが…と多くの公開研究があります。当方は、神社研究者の片隅にいるものであって、お教え頂くばかりですが、最も重要な関心事は阿智王の一族は後漢の消滅期に半島に移動し、列島に移動したと考えても、昼神温泉当たりの国境警備として配置されたのは奈良から平安期にまで遅れるのではないかと考えているところです。
一方、中川村の風三郎神社に象徴される、南阿蘇の高森町に今も鎮座する三郎こと興ツ彦=新彦を祀る、三郎神社の一族(ヒコヤイミミと高千穂の三田井に一つの拠点を置いていた高木大神の次女タクハタチヂヒメを妃とした高木大神系の氏族)が、天竜川左岸に配置された時期は、建御名方命、八坂刀女が諏訪に入って以降のはずであろうと考えているところです。
問題は、恐らく三世紀半ば以降と考えているその時期に、三郎神社の一族が追討使宜しく入ったのか、その後裔氏族への監視と防衛がその時期であったかどうかを考えているところです。
今のところ、その辺りを探る情報が少なく、推定するしかないのですが、信州でも天竜川流域に、阿蘇系氏族(藤原氏の前身)が入り、一帯を支配し、建御名方命とその後継氏族を、監視、牽制していたばかりか、そもそも建御名方命を抑え込み国譲りを強要したのはヒコヤイミミこと武甕槌だったはずで、その現場も九州のはずなのです。
次号では、建御名方命とそのお妃となったのが実は阿蘇宮司家初代惟人の姉か妹の奈留多姫であり、ウガヤフキアエズ命と別れた後の変名が八坂刀女であったという話に入ろうと思います。
百嶋神社考古学では阿蘇氏とは雲南省麗江からメコン川(中国名瀾滄江)を下り、ホーチミン(旧サイゴン)から黒潮に乗り海南島(南西岸)に入った黎族の一派です。共に漢族と戦い続けた白族(ペイツー)は雲南省昆明から紅河(ファンガ)を下り、ハノイの正面には海南島がある訳です。
この白族こそ造化三神のカミムスビ神であり、その子が八咫烏となるのです。
そして、その娘が賀茂玉依姫(下賀茂神社)の祭神となっているのです。
白族は今も海南島に残っており、加茂(チャマオ)という表記の地名が同地に残っているのです。
これは、一例であり、漢族と戦い続けた阿蘇氏と熊野系の人々(熊本に白川とか白水村)を残した人々は、その後列島全体に拡がり、日本人の多数派を形成したのでした。つまり九黎族が日本人の根幹なのです。この様な話は分量が多くなりますので、当方の三系統のブログ、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)、新ひぼろぎ逍遥外のブログ、ユーチューブをご覧頂ければと考えております。
そして、雲南省麗江には支那城があり、多大将軍の像まで残っているのです。
奈良県に阿蘇系の多神社が在ることは皆さんも良くご存じでしょう。
阿蘇氏は最後の最後まで漢族と闘い続けた人々なのです。その延長上に藤原氏が生まれているのです。西日本新聞→外にも幾つもありますが、後は「ひぼろぎ逍遥□●●●」と入力し検索を試みて下さい。 次のブログでは、宮沢賢治の後年の短編「風の又三郎」と風三郎神社を考えます。