2021年07月24日

016 西の浦は大幡「主」の浦ではないのか? A

016  西の浦は大幡「主」の浦ではないのか? A

20210620

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


E 鹿児島県姶良市蒲生町西浦

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皆さん良くご存じの桜島ですが、どう見ても東に位置する西浦です


姶良市蒲生町西浦です。蒲生は上賀茂、下賀茂の置換えですから大幡主=カミムスビ神の領域つまり大幡主の港としか言いようがありません。

ここで蛇足ながら、ついでに鹿児島の意味を考えて見ましょう。

鹿児島の地名起源については諸説ありますが、百嶋神社考古学の者が提案するのは、大幡主の船団が絶えず寄港し、水夫(カコ)が停泊するカコの島=桜島を持って鹿児島と呼ばれたのです。


F 熊本県熊本市西浦熊本市でもかなりの内陸部にあることから信用して貰えないかもしれませんが、2000年前ぐらいの熊本市を考えると、相当奥まで汐が入っていたはずです。

無題.png現在の平野の大半は加藤清正以降の干拓地であって、実際には鹿児島本線の上熊本から西里まではかなり深い入江があり、現在、崇城大学がある正面の平地は最低でも満潮時には汐の入る海だったはずです。

ここに神社庁管理に無い西浦三宝荒神があり相当に流行っています。

荒神様であることから、火の神、製鉄神を底流に持つ金山彦系の神社です。

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ここも、白族である天御中主から大幡主の一族つまり八代の妙見宮から熊本に進出したいわば女王陸地のような場所であり、有明海の大きな上げ潮に乗りギリギリまで上って来た場所のはずなのです。

そもそも、熊本とは北部九州に数多く分布する隈地名の発信源のような場所であり、加藤清正が「隈本」と言う字を嫌い「熊本」に替えたと言う話は熊本では誰でも知っている話なのです。

さて、熊本にはもう一つの西浦が在ります。有明海の西浦に対して不知火海に面した西浦も確認しておきましょう。


G 熊本県宇城市西浦

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宇土半島の南側つまり不知火海の北辺にも西浦があります。

民俗学者の故)谷川健一が「続日本の地名」に書いた永尾神社(永尾地名)の西隣の谷=湾奥に西の浦があるのです。

熊本の三宝荒神の西浦が有明海からの、当地が不知火海からの寄港地と考えれば非常に合理的ではあるのです。

この西の三角港には波多浦があるように、この一帯も大幡主系の支配海域だった事が分かるのです。


H 佐賀県武雄市西浦町


「こんな訳けのわからない所の話を持ち出してくるな!」との罵声が聞こえてきそうですが、今では自信を持って有明海最湾奥部の重要港湾だったと理解しています。

ここも東の浦が在る訳でも無く、何で西浦町があるのかが全く不明でした。

武雄温泉(旧塚崎温泉)があり、神功皇后が三韓征伐で御船山の麓に船を着けたとの伝承が残る土地ですが、現在の有明海の海岸線からすれば二十数キロも入る内陸部に何で西浦が在るんだ!と思われる方が多いだろうことは言わずもがなの話です。

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ところが、これについては反証があります。

それは、福岡県朝倉市林田の美奈宜神社の由緒です。以下をお読み下さい。

下は御船山ですがある方向から見ると二峰に見え、古代船に見えるのです。

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三韓征伐の帰路、神功皇后は有明海沿岸に凱旋し、直接的には肥前の高橋の津に上陸していると書いているのです。

実は宮司もご存じなかったのですが、これはJR佐世保線の高橋駅(武雄温泉駅の一つ東の駅)であり、肥前高橋の津とは現佐賀県武雄市朝日町の高橋これ以外にはありえません。

また、傷ついた兵員のために嬉野温泉(佐賀県嬉野市)にも寄港したという伝承も残っており、神功皇后一行が有明海側に凱旋した事は間違いないのです。

ところが、直接的には山口県下関市に該当する周防の佐波から出て何やら近畿大和の方から熊襲退治に出向いたと言う話と有明海凱旋の話が齟齬を来す事から、「神功皇后紀」からはすっかり落されているのです。

有明海は現在でも上下6メートルの潮汐幅を持つと言われますが、千数百年前を想定すれば、恐らく78メートル(平均海面からはその半分)の上げ潮に乗って相当奥まで海水が雪崩れ込んでいたはずなのです。

事実六角川水系の旧塩見川には、武雄市役所南23キロに位置する大日地区には現在も小規模な河口堰(大日堰)が置かれここまではフグやその他の海水魚が採取されているのです。

このような土地の市役所が置かれる場所にも西浦町(市役所は武雄町昭和ですが…)があるのです。

恐らく、六角川の堤防が消えれば、たちどころに海水が押し寄せるだろう事は疑い得ないのです。


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当然にも皇后の艦船が船を着けた場所は北嶽の裾野北麓の旧塚崎城城門付近だったと考えられます。

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では、何故、御船山や西浦が必要だったかをお話しし終わりとしましょう。

神功皇后は明らかに有明海沿岸で兵員を調達しています。

その事は福岡市筑前町の大巳貴神社の伝承でも明らかです。勝ち戦なら尚更の事復員は有明海側に戻すべきはずですし、宿敵新羅を撃つとして、博多に戻るとしても一旦は西に向かい五島列島の辺りから南下しなければ、対馬海流に押流され出雲、敦賀、石川へと流されかねないのです。

そして、長崎を廻り、有明海に入れば本拠地の筑後川流域に戻れたはずなのです。

林田の美奈木神社の社伝にもあるように、出師から出船は秀吉公同様名護屋(佐賀県唐津市呼子町)だったとしても、相当の人員を有明海沿岸から徴募していたはずで、その兵士の復員にも、その調達地にいち早く戻る必要があった事は明らかで、有明海側に戻っているのです。

では、その兵員輸送はどのように行われたのでしょう。

そこで、考えると唐津に注ぐ大河松浦川は、武雄市から流れ出しているのです。

現在でも、ダム、井関が無く唐津湾に注いでいるのですから、古代には三倍の川幅と安定した流量に加え、周辺の森から木を伐り出して流せば、兵員輸送と木材の輸送が一気に行えたはずなのです。

その大きな支流の一つは、武雄温泉駅の西隣の永尾駅(武雄市山内町鳥海トノミ)の駅構内を縫うように流れ、大雨の時には大量の水が唐津湾まで一気に駆け降っているのです。

この「鳥海」という地名も大幡主系の住民が定着した土地に付されるものと知っているため、やはりと思わざるを得ないのです。

武雄市の西浦町から西(佐世保方面)に34キロは小字に浦地名が拾えましたので、まだ奥まで入れるはずですが、永尾駅までは百メートルもない坂を登ればいともたやすく永尾駅に行く事ができるのです。

後は、筏で一気に唐津湾を目指して降れば、半日を待たずして大量の兵員が搬送できたはずなのです。

話が神功皇后の時代にまで一気に下りましたが、百嶋神社考古学では大国主命と神功皇后+開化天皇の時代は百年程度の差しかなく自然環境に大きな差は存在しなかったと考えています。

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松浦川について 国土交通省 九州地方整備局 武雄河川事務所

http://www.qsr.mlit.go.jp › takeo › matsuuragawa


松浦川の概要. 歴史と文化を継承し、安らぎと緑豊かな松浦川へ. 佐賀平野の水害常襲地帯である低平地を蛇行する六角川. その源を佐賀県武雄市山内町青螺山(​標高599m)に発し、鳥海川等の支川を合わせながら北流し、唐津市相知町で厳木川と、同市養母田で徳須恵川と合流。唐津市市街地で川幅を広げ、唐津湾に注ぐ。


現在も遮る河口堰などがなく、事実上のウウォーター・スライダー状の川なのです。

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右は久留米高良山に残された「高良玉垂宮神秘書」です。

仲哀死後の神功皇后と開化天皇は夫婦となっているのです。

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2021年07月21日

015 西の浦は大幡「主」の浦ではないのか? @

015  西の浦は大幡「主」の浦ではないのか? @

20210619

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


これまで大国主の国譲り問題に関して一般的に議論されない部分を中心に書いてきましたが、ここからさらに思いっきり未知の領域に踏み入り、仮説中の仮説の領域に踏み込んで見たいと思います。

それは、九州山口を中心に何故、西浦、西ノ浦という地名がこれほど目立つのかという事実に乗り上げたままでは、先に進めず途方に暮れているのであり、未だに解決を見ていないからなのです。

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何の事だか意味が分からないと思われている方ばかりだと思うのですが、実は九州〜山口に掛けて西ノ浦という港がかなりの数で存在しているのです。

といっても地名ですから山ほどあるといったものではないのですので過度の評価が頂けるとは思っておりません。

対して、東ノ浦という地名が全く無い訳ではありませんが(大分県中津市…)、目立たないほどですので、無視されて良いレベルです。

対して北浦というのも同じく大分県の中津市に、また、宮崎県に北浦という町が昔存在していましたので(現延岡市)これについては承知していましたし、現地も踏んでいます。

こうして考えてくると、何故か「西ノ浦」だけが目立っているのです。

これがもしかしたら東西南北の西ではないのではないかという考えが湧いてきたのはここ一〜二年の事でした。つまり、西ノ浦とは「大幡主の浦」というアイデアでした。

大幡主とは博多を最大拠点として半島から大陸そしてインドシナまで交易を行なう海人族(実質的には武装商船隊)の頭目だった人なのです。

勿論、「幡」とは船の帆を意味しており、大きな帆の船を使う集団だったのです。

彼らは、渡洋航海は元より対馬海流、黒潮を利用し列島の主要部と交易を行なう集団だったのです。

これらの人々は、海人族の船が入る重要港を拠点として移動していたはずです。

その港は、後には湊(つまり秦氏の港と呼ばれたはずです)唐津市湊、宗像市神湊、山口県長門市東深川湊、兵庫県神戸市(旧湊村)兵庫県淡路市湊、境港、隠岐の島湊…後は省略します。

これらは、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛の一族(金山彦の一族)と濃厚な関係を結んだ大幡主=カミムスビ神の開拓し管理する湊だったのです。また、秦の始皇帝の姓名も贏政(エイセイ=インチョン)ですね。市杵島姫も正式には瀛津島姫なのです。

この金山彦の集団に引き続き、「秦」そのものの滅亡によって半島から秦氏も本格的に入って来たのです。

恐らく、この湊以前に開拓された大幡主の拠点港が大幡主の主に準えられ主ノ浦(ヌシノウラ)⇒西ノ浦(ニシノウラ)と呼ばれたのではないかと考えるのです。ひぼろぎ逍遥の古川清久氏は福岡県飯塚市鹿毛の厳島神社について以下の様に書かれています。


「ひぼろぎ逍遥」(跡宮) 054 秦の始皇帝と市杵島姫


奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。

秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、

 【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または無題.png秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した


と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


無題.png市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


 一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ。

転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金鑚(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方にある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃまぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイスラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというところです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレキサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金鑚(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをもらって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれたうちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さんも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というのは日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなったかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わないのですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。

ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこのイン族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉彦(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。

 ただ、氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉彦(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。


では、西浦、西ノ浦を拾い出して見ましょう。

まず、最初に上げるのは糸島半島の東に在る岬の西側にある西ノ浦です。

@ 福岡県福岡市西区西浦(左下) ここは風待ちの港 唐泊 の裏側にあるその意味では西の浦ですが、ここから半島、大陸に向かう船は、一旦下五島列島の手前、辺りまで進み、対馬海流の本流でも対馬の西を通るルートを通り半島南部に入ったのです。

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A 長崎県南島原市西有家町龍石西之浦(右上)

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ここは丘陵地に志賀神社、海岸線に金毘羅神社がありますので、大幡主のエリアそのものですね。

ここもつい最近周辺の神社を全て確認しています。


B 伊王島村 西ノ浦(現:長崎市伊王島町)

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伊王島という名で分かっていましたが、ここは伊の大神こと山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦を祀る神社=白髭神社が置かれています。お妃は豊受大神(伊勢の外宮)=伏見稲荷ですので大幡主と大きな繋がりがありますので大幡主の船団が有明海〜出船し対馬海流に乗る出船地ですので重要港湾であることは明らかなのです。


C 山口県防府市西浦

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ここも、田島山が背後に控えていますので間違いがありません。

田島とは宗像大社の辺津宮の鎮座地の大字名が田島であり、佐賀県唐津市(旧呼子町)加部島に田島神社が在る事でもお分かりになるでしょう。

そもそもこの防府市には、玉祖神社という周防一の宮でしたか、市内にも分社が数社ある大神社があり、そのくせ主神が誰なのかが分からないという信じられない話が広がっている神社があるのです。

手持ちの「山口県神社誌」を見るまでもなく、百嶋神社考古学の立場からは「玉祖」とは豊玉彦=豊国主=ヤタガラスの親神である大幡主(造化三神のカミムスビ)に決まっているのです。

何が謎だ?と言いたい所ですが、神社そのものから神社研究者、郷土史会、史談会には神社がおわかりになる方がおられないのでしょうか?豊かな経済力を持つ防府市にしては悲しい限りです。


D 大分県姫島村西浦 

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ここだけには東西南北の東以外の港名が揃っています。だから見当違いかも知れませんが。

しかし、西浦ははっきりありますね。保留しておきたいと思います。ひぼろぎ逍遥の古川清久氏は、この姫島の大帯八幡社について二十本を超えるブログを持って解析をされています。

カミムスビの神=大幡主を祀る周防は防府の玉祖神社の正面に位置する姫島だけに大幡主系の湊であろう事は疑う事が出来ません。


E 大分県佐伯市蒲江西野浦

ここは古川氏も昔から何度となく魚釣りに入っている所で、最近では年に10回も通う魚港との事ですが、ここ二年程周辺の神社を虱潰しに見て廻っておられます。

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この地区には速吸日女神社の分社があります。有名な佐賀関の神社ですが、祭神は椎根津彦命(シイネツヒコ)。そして、武位起命、稲飯命、祥持姫命、稚草根命が合祀されています。ここで、百嶋神社考古学のメンバーである「ひとつあがりのカフェテラス」氏のブログ2122号をご紹介させて頂きます。椎根津彦命について、ウイキペディアでは神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。このところ、佐賀関の椎根津彦神社詣でを繰り返しております。理由は、夏に訪れた奈良の大和神社(おお無題.pngやまとじんじゃ)で、神職の方から聞いた言葉が耳に残っていたからでした。それは、大和神社に鎮座する日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)とは「椎根津彦」のこと、というものでした。以来、佐賀関神山に鎮座する当社を幾度となく訪れ、そのことについて考えを巡らせているのでした。もちろん、社殿や境内を幾ら見渡しても、ヒントの欠片も落ちておりませんが‥。ここ椎根津彦神社は、佐賀関の半島地頸部に早吸日女神社と山一つを隔て、背中を合わせるように鎮座されています。社格は旧縣社なのですが、参拝者もあまり多くないためか、どことなくひっそりと静かに佇んでいる、といった印象です。漁港近くに車を駐め、海岸沿いの国道と平行して山際を縫うように走る細い路地をしばらく進んでいくと、民家に挟まれた、うっかりすると見過ごしてしまいそうな参道入り口に辿り着きます。少しばかり参道を登り、見上げると、これまでの神社とは少し違った感じの社殿が山を背にして鎮座されています。海上からの強い風雨に負けないよう、コンクリートで丈夫に造られた拝殿です。祭神は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)。そして、武位起命(たけいこのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)、祥持姫命(さかもつひめのみこと)、稚草根命(わかかやねのみこと)が合祀されています。椎根津彦命について、ウイキペディアでは神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。その後、神武天皇に献策し、兄磯城( えしき )を挟み撃ちにより破る。速吸門については諸説ある。『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。と記載されています。県内で椎根津彦命を祀っている社は、当社近くの早吸日女神社の境内社として鎮座している木本社(きもとしゃ,こもとしゃ)、それから由布市湯布院町の大杵社(おおごしゃ)などで、いずれも神武天皇の東征神話と由緒が関連づけられています。百嶋神社考古学では、神武天皇東征の伝承は神日本磐余彦尊ご自身ではなく、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとしています。中津市の薦神社(こもじんじゃ)に「一つ巴紋」が飾られていますが、この神紋が(贈)崇神天皇の足跡の証とされています。そして、(贈)崇神天皇と椎根津彦は兄弟であり、共に母は鴨玉依姫(神直日)とされています。さらに、百嶋系図では、鴨玉依姫は早吸日女(ブログbP8「早吸日女神社B」を参照)と同一神とのことでしたので、早吸日女神社近くに息子神である椎根津彦命が祀られていることは当然と言えば、当然なのでしょう。百嶋系図でも「倭彦」の文字が確認できますね。では、大和神社とはどういった繋がりがあるのでしょうか。椎根津彦について佐賀関町史(昭和45年発行)には、速吸の門を通過の際、天皇は国神(くにつかみ)椎根津彦(珍彦(うずひこ))に遭われこれを水先案内とされたが椎根津彦は行く先々で戦功を立て、後に倭直部(やまとのあたひら)の先祖となった。もとより『記紀』の神武伝承は神話であって、史的事実と違うが『記紀』を科学としての歴史の立場で読めばその中に建国期における佐賀関の価値も見出せると思う。 ただ速吸の門の椎根津彦のくだりが、『記紀』の夫々の記述にいささかの相違点があるので、次に原文のかきくだしをのせて対比して見よう。『古事記』の記述 「故(かれ)其の国より上り幸()でます時に、亀の甲()に乗りて釣ししつつ来る人、速吸門に遇いき。ここに喚びよせて「汝は誰ぞ」と問はしければ「僕()は国の神名は宇豆毘古(うづひこ)」とまをしき。また「汝は海道(うみつぢ)を知れりや」と問はしければ「能く知れり」まをしき。また「従(おとも)に仕へまつらむや」と問はしければ、「仕えまつらむ」とまをしき。かれすなはち槁機(さお)を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち槁根津日子(さをねつひこ)といふ名を賜ひき。こは倭の国の造(みやつこ)等が祖なり。」 ここも大幡主系の重要港湾ですね。

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2021年07月19日

014 大国主命は何故「主」の称号を抱いているのか?

014  大国主命は何故「主」の称号を抱いているのか?

20210619

百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 


ここで、大国主命が古代出雲王国の人などではなく、博多の櫛田神社の大幡主の一族でもあることが直ぐに分かる簡単なモデルがあるのでお知らせしたいと思います。

「大国主命」という呼称ですが、「主」(ヌシ)とは何でしょうか?

九州でも肥前〜肥後〜筑紫〜日向、つまり、豊前豊後特に豊前を除いた領域では、南方系の三母音の影響を受けているためか「ノ」音を「ヌ」音(O音をU音)で代行させる傾向が顕著です。また、「シ」とは何かと問われれば、人(アンシ、コンシ)の事だと考えるのです。


無題.png代名詞 あなた。きみ。▽対称の人称代名詞。◆漢文的表現で用いる。


代表的な「主」を持つ神様を思いつくまま拾い出して見ましょう。


天御中主命(白族)

大国主命(大山祗系)=射楯兵主(イタテヒョウズ)同一神だから「主」の称号が付されているのです

事代主(神話では大国主の長男とされていますがただの臣下です)

一言主(葛城系)

豊国主(=ヤタガラス=豊玉彦 白族)

大幡主(=カミムスビ 白族)

気吹戸主命(=金山彦)これは通常金山彦系=イスラエル系として扱いますが強い姻戚関係があります。

神主玉(=姫路の酒解と御年神の子酒解子)

大物主(=大山咋か?)…まだまだありますが、冗長ですのでこれまでとします。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


「主」という称号からも大国主命が大幡主=カミムスビ神(白族)の一族に移行した大山祗系(トルコ系匈奴)であることがお分かり頂けるのではないでしょうか?

無題.png昔、兵庫県でも播磨の国にやたら祀られている射楯兵主神が何者なのか分からず困っていた事がありました。


精選版日本国語大辞典「射楯兵主神社」の解説

いたてひょうずじんじゃ いたてヒャウズ【射楯兵主神社】

兵庫県姫路市総社本町にある神社。旧県社。祭神射楯神、兵主神ほか。養和元年(一一八一)一六郡一七四座の神を合祀して、播磨国総社・府中社として知られる。延喜式内社


これは播磨国総社姫路の居楯兵主神社 →


「播磨国風土記」にもスサノウと兵主神が一大決戦を行ないスサノウ系が出石に閉じ込められる歴史が残されています。これが大国主命らしい事は見当がついてはいたのですが、兵主(ヒョウス、ツワモノヌシ)と呼ばれている事で、博多の櫛田神社の大幡主の配下であると分かったのでした。

この「主」という尊称は天御中主命にも事代主にも使われている事からも、男女を区別しない称号と分かるのです。

これも海人族の考え方ですね。

豊国主という人物もあまり聴いた事が無いかも知れませんがヤタガラスです。

豊国主とも豊玉彦とも呼ばれますので、櫛田神社の後継者であり白族の代表者であることが分かります。

気吹戸主命=金山彦は白族ではないではないかと思われるかも知れませんが、神代系譜の通り、相互に通婚が進んでおり、「主」という称号がイスラエル系の金山彦にも息吹戸主として使われたものと考えています。

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百嶋由一郎 008イヨ系譜 神代系譜(部分)


四国も含め一般的に金毘羅さんは大国主の事とされていますが、故)百嶋由一郎氏は大山咋を大物主とお考えだったようです。

これがこの神代系譜に表現されています。大山咋は草部吉見と市杵島姫の間に生まれたプリンセスですが、宗像の主神でもあった大国主命の側に惹きつけようとしたのか、大国主を義理の大物主なる表現で両者の関係を描いておられます。

まだよく分からない部分もありますが、少し分かった部分もあります。

いずれにせよ「主」は大幡主系の尊称で良いようです。

このため、トルコ系匈奴の大山祗の男子である大国主命も姻戚関係によって「主」と呼ばれたのであり、大国主が出雲で生まれたのではないにも拘わらず大幡主の植民国家だった出雲の「主」になったのです。

posted by 奈東南雄 at 01:03| Comment(0) | 日記